リトアニア旅行記 (3) 杉原千畝記念館と十字架の丘(2019年7月)
2019年7月にバルト三国を周遊しました。
観光初日はビリニュスに到着して、空港から旧市街を散策しました。
午後の観光について紹介します。
【目次】
1. ビリニュスからカウナスまでのバス移動
2. カウナスのモダニズム建築と杉原千畝記念館
3. ドマンタイの十字架の丘
1. ビリニュスからカウナスまでのバス移動
7月13日(月)、ビリニュス観光を終えてビリニュスのバスターミナルへと向かった。
時間は既に夕方で、次の目的地であるカウナスに向かうバスチケットを買うため。
バスターミナルはビリニュス駅のすぐ近くなので、旧市街の南端である夜明けの門からは徒歩10分程度で行ける場所にある。
バスターミナル内には現地のスーパーであるIKIやその他小規模な売店などもあり、小腹を満たすことができた。
英語はほとんど通じないが、行き先さえ伝えられれば最短出発のバスチケットは買える。
ビリニュスからカウナスまではEUR7(約850円)。
実際には、バスターミナルに来る前にビリニュスの鉄道駅でもカウナスへの切符が買えないか聞いたのだが、無いという答えだった。
バスターミナル以上に英語が通じず、念のために別の係員に聞いても答えは同様。
カウナスのような主要都市への鉄道が16時台に全て終わっているとは思えないが、一方で複数の係員に聞いても切符が買えなかったという事実に謎が残った。
バスは建物の裏手から出発する。
鉄道があまりないバルト三国の移動はバスがメインになるが、そのためかバスは非常に乗り心地がよく、WiFiも問題なく使えた。
7月の暑い中なので、冷房が十分に効いていたことも非常に助かる。
16時半頃にビリニュスを出発し、西のカウナスへ着いたのは18時の少し前。
1時間半弱のバス移動はとても快適だった。
2. カウナスのモダニズム建築と杉原千畝記念館
カウナスのバスターミナルはビリニュスのそれよりも立派で、全面ガラス張りの建物が目を引く。
スーパーのRimi、しかも結構な大型店が入っているために買い物にも便利。
ビリニュスでは旧市街の観光中に飲食物が買える店をあまり見なかったので、ここで水やチップスを買ってからホステルに向かった。
ホステルでチェックインを済ませてから、荷物を部屋に置いて身軽になってカウナスの街を見るために外に出た。
独立広場と聖ミカエル聖堂がホステルから近いため、最初に向かう。
聖ミカエル教会は19世紀末に建てられた要塞を起源とし、その後カトリック教会として機能した。
東ローマ帝国時代に盛んになったドーム天井を持つ形式であるビザンティン様式を、19世紀後半から20世紀にかけて外壁の装飾なども付加してリヴァイヴァルしたネオ・ビザンティン様式で造られている。
ソヴィエト体制の下では要塞として使用された歴史も持つようだ。
聖ミカエル教会から西側にはライスヴェス通りが続く。
カウナスの代表的な通りで、3kmほど歩くと町の西端にあるカウナス城に辿り着く。
時間は19時を回っているが7月ということもあってまだ明るいが、通りの店は既に大部分が閉まっていた。
もう少し賑やかな時間であれば歩く意味もあったが、寂しい時間帯なので通りの散策は諦めることにした。
代わりに、東西に続くライスヴェス通りを適当なところで北上し、ヴィタウタス大公戦争博物館へ向かった。
ヴィタウタスは15世紀初頭のリトアニア大公であり、1410年にポーランドとの連合によってドイツ騎士団を破ったタンネンベルクの戦いの時代の支配者であった。
第一次大戦中にロシアがドイツに敗れたタンネンベルクの戦いから遡ること500年以上前のことだ。
ぞれぞれにおいて、ドイツが敗者と勝者として登場することに歴史の面白みがある。
ヴィタウタス大公戦争博物館自体は閉まっており、中に入ることができなかった。
2017年にリトアニア文化省からの申請で、建物が1919年から1939年のモダニズム建築の一例であるとして世界遺産の暫定リストに記載されている。
この時期は、ロシア革命後にリトアニアが独立してから第二次大戦の戦禍に巻き込まれるまでの戦間期に当たる。
また、すぐ裏手にある国立チュルニョーニス美術館も同様に暫定リストに登録されている。
暫定リストに登録されている建築の残り1件であるキリスト復活教会は、これらの建物から近く、徒歩で10分もかからない。
小高い丘の上にある上に高さ70mを超える主塔を備えているため、地上からも見えるので目印にしやすい。
キリスト復活教会は1930年代に工事が行われたが、第二次大戦後には工場として使われた。
そのエピソードに全く違和感が無いほどの威容を誇り、実際にバルト三国では最大のバシリカを持っている。
初めてミサが行われたのは1997年と比較的最近であることも面白い。
日が長い7月だったので21時頃まで明るい中で出歩けたため、満足してホステルに戻った。
更にラッキーなことに、6人部屋で他の宿泊客がおらず独占して部屋を使えた。
1500円くらいの負担で実質一人部屋は非常に嬉しい。
翌日、7月14日(日)は朝4時半に起きて調べ物をしながら杉原記念館の開館に合わせて9時半にチェックアウトした。
少し寄り道しながら徒歩30分ほどかけて到着。
到着は開館の10時になるように来たのだが、ここで大きな問題が発生した。
扉には、普段は10時開館だが土日は11時の開館である旨が書かれている。
通常であれば1時間程度は誤差かもしれないが、この後はカウナスを発ってシャウレイに向かう11時発のバスチケットを買ってしまっている。
そのため、11時の開館を待っていると確実にバスを逃してしまう。
どうしたものかと思案しながら周囲を観察していると、通用口が開いていることに気がついた。
中からは話し声も聞こえてきたので、聞き耳を立てていると2人の係員がいるようだ。
これ幸いと中に入り、係員に事情を説明した。
杉原記念館が主目的で日本からやってきたこと、バスが正規の開館時間11時と同じであること。
すると、快く無料入場許可がおりた上、正規入館後に見せられるショートフィルムも自分だけのために流して頂けた。
自身の都合だけで無理を言ったにも関わらず、柔軟に対応して頂けたことが心に染みる。
第二次大戦中に領事館であった現在の記念館の中には、杉原千畝の生涯や功績を示す展示が所狭しと並んでいる。
外務省の官費留学生に合格したために早稲田大学を中退し、学生としてハルビンに派遣された1919年の5年後には、早くもハルビン総領事館で働いていたのだという。
その後、満州やヘルシンキでの勤務を経て1939年に在カウナス日本領事館の領事館代理として着任したのは、ドイツによるポーランド侵攻がきっかけとして第二次大戦が始まるわずか数日前だった。
展示の中で、実際に執務に使用されていた執務室の机と椅子が最も印象的だった。
1940年7月、ナチスから逃れるためにポーランドにいたユダヤ人を救うための通過ビザの発給が始まった。
本国である日本の意向とは異なるものではあったものの、人道上の必要性から杉原千畝の判断による発給で、今日では『命のビザ』と呼ばれている。
7月18日から列車でカウナスを離れるまでの約1ヵ月半の間に6,000人ものビザを発給した。
少しでも多くのビザを発行するために寸暇を惜しんで書き続けただけではなく、厳格な日本との電信返信を意図的に遅らせるなど、様々な努力の賜物だったことが知られる。
当時、実際に使用されていた領事館の印も置かれている。
公式の入出国印ではないので、パスポートには押さないようにという決まり文句も掲げられていた。
自身は、記念として公式のパンフレットに押印。
公式開館1時間前の10時に中に入れて頂くことができたが、30分ほどすると日本人のツアー団体客が20名ほどやってきた。
初めはその中でもしばらく展示を見ていたが、独断で先に入館させてくれた係員に丁重にお礼を言い、入れ替わるように記念館を抜けて11時のカウナス発~シャウレイ行バスに乗るために早足でバスターミナルへ向かった。
3. ドマンタイの十字架の丘
チケットは事前に日本でautobusubilietaiのサイトで購入してあり、価格はEUR11.2(約1,360円)。
バスはカウナスのバスターミナルから予定通りの11時5分に出発し、目的地のシャウレイには14時前に着いた。
十字架の丘を見に行くためには更にここからバスに乗る必要があり、チケットカウンターで聞くと12番乗り場で待つように言われた。
なお、近辺にはタクシーも呼び込みをしており、時間が無い場合はそちらも選択肢になる。
本来は14時15分発のバスだったが20分待っても来ないため、チケットカウンターに状況を聞きにいくと『そんなもんだ』という予想通りの反応。
ところが、自身は18時過ぎにシャウレイを発ってラトビアのリガに向かうという後の予定がある。
そのため、時間の節約のためにタクシーという選択肢が急浮上した。
呼び込みをしている運転手に話を聞くと、往復と現地滞在1時間でEUR30(約3,650円)を提示された。
他の車両も当たってみるが、よくある通りEUR30の一律料金から全く下がらない。
そこで、滞在は1時間ではなく30分で良いという方向に切り替えて交渉をすると、EUR25(約3,050円)で良いと言う運転手が現れ、最終的にはEUR20(約2,440円)まで値下がりした。
この間にもバスが来ればラッキーと思いながらバス停の様子も見ていたが、来る気配がないためにEUR20提示のタクシーと妥結した。
シャウレイから十字架の丘は、車では非常に近く10分もかからない距離にある。
15時前に十字架の丘の近くにある駐車場に着いた。
駐車場からは道路の下のトンネルをくぐって東へと向かう。
十字架の丘は、最近では様々なメディアに頻繁に取り入れられてかなり有名になったように思う。
もともとは一部の人しか知らない上に、下手をすると『十字架が並ぶ不気味な場所』とすら認識されていたように思うが、いつの間にかフォトジェニックな印象へと変貌を遂げた。
7月という日の長い時期ということもあって、15時前後というやや夕方寄りの時間ながらも観光客が非常に多い。
十字架の丘という名前の通り、高さ数mの小高い丘に歩道が敷かれ、その歩道を埋め尽くすように十字架が立っている。
歩道は1つだけではなくあちこちで枝分かれし、更に丘を囲むように周回状にも走っているため、一通り歩くとなると想像に反して1時間でも足りないように思えた。
自身は、往復と現地滞在をまとめてタクシー運転手と減額交渉をする中で滞在時間を30分条件で交渉していたため、小走りをしながら全体を回った。
少し忙しい印象ではあったが、結果的には見学に時間が不足するということはなかった。
こうした十字架を作る文化は『Cross-crafting and its symbolism(リトアニアの十字架の手工芸とその象徴)』として無形文化遺産に登録されている。
19世紀にリトアニアがロシアへ併合され十字架作りが禁止されながらも、ソヴィエト体制下にまで十字架文化が引き継がれ、国民的・宗教的なシンボルであり続けた。
十字架の丘の入口向かって左側には展望台のような組小屋があり、そこからは十字架の丘が一望できた。
意外に進行方向に長いという全景が理解できる。
一通りの見学を終え、待機するタクシー運転手のもとに約束の30分程度で戻った。
そのままシャウレイのバスステーションに戻ってもらい、次の目的地であるラトビア行きバスを待つ。
<関連記事>