アメリカ旅行記 (2) ハワイ諸島 オアフ島のパールハーバー行き方(2019年1月)
2019年1月、奥さんと子供を連れて3人でオアフ島に行きました。
滞在3日目はバスでパールハーバーへ行きましたが、思いのほか時間がかかってしまいました。
【目次】
1. パールハーバーの行き方
2. パールハーバーの概要
3. Road to War & Attack
1. パールハーバーの行き方
1月12日(土)は朝5時に起きたものの、気が付くと二度寝で10時に起床。
奥さんも子供もそのような具合で、一家全員が遅く起きてしまった。
特に予定はなかったが、時間等を考慮してパールハーバーに行くことに決めた。
11時半にホテル近くのバス停で路線バスの42番に乗った。
片道は一律USD2.75(約310円)だが、往復料金と変わらない1DAY PASSをUSD5.50(約610円)で購入。
空港を経由するために少し時間はかかるものの、20番のバスでもパールハーバーまで行けるようだ。
パールハーバー近くのバス停Kamehameha Hwy + Kalaloaまでは片道1時間ほど。
ワイキキから離れているだけに、観光客が多く降りる状況は目立つため、周りに合わせて降りれば問題なく着くことができる。
バス停からパールハーバーの入口までは徒歩3分くらい。
ワイキキ方面から来た車線からは反対方向にあるので、道路を横断する。
入口はアメリカ国旗がはためき、現在も海軍や空軍の拠点として使用されていることから軍旗も掲揚されている。
本来はこの入口付近にあるバス停Arizona Memorialまでバスで来られるのだが、
2019年1月時点では付近が工事中でここまでバスが入ることができず、代わりにKamehameha Hwy + Kalaloaで降りたということになる。
ただ、どちらのバス停でも大きな差異はない。
現在も現役の軍事拠点であるパールハーバーの入口ではセキュリティチェックが科され、特に鞄類は小さくても中には持ち込めない。
そのため、荷物は入口向かって右側にあるクロークに預ける必要がある。
クロークは有料で、荷物1つにつきUSD5(約610円)。
こういった小額かつ特殊な場所でもクレジット決済ができるのはありがたい。
2. パールハーバーの概要
再び入口に戻り、セキュリティチェックを通過。
小さいバッグは不可だか、首から下げる15cm×25cmくらいの貴重品入れは持込可だった。
そちらに貴重品は全て集約した。
パールハーバーにある戦争証跡等は正確にはPearl Harbor Historic Sitesと呼ばれ、戦艦アリゾナ記念館、ボウフィン潜水艦博物館、太平洋航空博物館、戦艦ミズーリ記念館の4つの主要見学場所に別れる。
太平洋戦争終戦翌月の1945年9月、横須賀沖に停泊していた戦艦ミズーリの甲板で外務大臣重光葵が太平洋戦争の降伏文書へ署名したことで、日本人にとってミズーリは最もよく知られている戦艦ではないだろうか。
これらのうち、サイトの敷地と戦艦アリゾナ記念館のみ無料で解放されている。
セキュリティチェックを過ぎた所に、チケット販売などのカウンターが左右に並ぶ。
向かって左は戦艦アリゾナ記念館の無料チケット配布、向かって右側はボウフィン潜水艦博物館など有料エリアのチケットを販売している。
まずは無料の戦艦アリゾナ記念館のチケットを家族3人分受け取り、続いて右のカウンターで料金と内容を確認する。
訪れた2019年1月時点では、戦艦ミズーリ記念館は13歳以上USD29(約3,240円)・4歳以上USD13(約1,450円)、ボウフィン潜水艦博物館は13歳以上USD12(約1,340円)・4歳以上USD7(約780円)、太平洋航空博物館は13歳以上USD25(約2,790円)・4歳以上USD12(約1,340円)だった。
これらを全て包括できるパスポートも販売されており、13歳以上USD72(約8,040円)・4歳以上USD35(約3,910円)。
但し、パスポートを買っても元から無料の戦艦アリゾナ記念館は別途無料チケットを貰わなくてはならないので、その点は注意が必要。
また、全てをセットにしなくとも公式サイトではいくつかの組み合わせで特別料金のオファーもしている。
オンライン決済もできるので、現地にいきなり来て迷うよりは検討しておいたほうが良い。
今回は、時間があまりなかったので太平洋航空博物館のみのチケットを買った。
もし主要な見学場所全てを回ろうと思うのであれば、自分のように二度寝で昼から動き出すといった状態で来るのではなく、朝早くから来たほうが良いと思う。
無料で貰えた戦艦アリゾナ記念館のチケットで行くことができるのは、陸地にある戦艦アリゾナ ビジターセンターと洋上の戦艦アリゾナ記念館の2つ。
チケットにはビジターセンターに集合する時間が印字されており、我々は13時30分の指定だったため、1時間ほど間が開くことになった。
その間に敷地内を見て歩く。
Pearl Harbor Historic Sitesはオアフ島と、その対岸1kmほどの沖に浮かぶフォード島からなる。
オアフ島側にはボウフィン潜水艦博物館と戦艦アリゾナ ビジターセンターなどが、フォード島には戦艦ミズーリ記念館と太平洋航空博物館などが設置されており、両島の間は指定された場所から発着するバスで往復可能。
島はフォード橋で繋がれ、パールハーバーを横断する橋が陸からよく見える。
なお、『フォード』の名前はハワイ王国時代に行われた島の売却以降、転々と持ち主が変わる中での所有者のうちの1人に因んでいる。
フォード橋でフォード島に渡るのは後にして、引き続きオアフ島側の敷地を散策。
真珠湾に臨む海岸に沿って戦艦アリゾナの錨や、日本による真珠湾攻撃の様子やその被害を解説したボードが立ち並ぶ。
1941年、日本時間12月7日未明(ハワイ時間12月8日午後13時過ぎ)に真珠湾攻撃は決行された。
一般に奇襲と言われている背景として、日本側の宣戦布告がアメリカ側に伝わったのが真珠湾爆撃後であるということが挙げられる。
そうなった理由として、暗号化された通告分が長すぎて在ワシントン日本大使館の翻訳に時間を要したであるとか、それ以外にも大使館側で様々な人為的ミスが起こって伝達が遅れたと言われているが、実際のところは日本側から通告文書が大使館に送られた時間そのものが遅すぎたということのようだ。
結果的に奇襲となった真珠湾攻撃では、アリゾナを含めアメリカ側の戦艦が複数沈み、ゆうに2,000名を超えるアメリカ兵の犠牲者を出した。
但し、アメリカの空母はパールハーバーに停泊していなかったために1艦も撃沈されることがなく、アメリカの航空戦力を著しく削ぐには至らなかった。
3. Road to War & Attack
戦艦アリゾナ ビジターセンターの向かいには、2つの博物館が設置され『Road to War』と『Attack』と名づけられている。
これらも無料の施設であり、日米開戦までの経緯や戦況について展示がなされている。
太平洋戦争開戦直前の1941年当時、日本は日中戦争のさなかにあった。
1937年から続く日中戦争は資源の少ない日本を疲弊させ、資源豊富な東南アジアに目を向けさせる。
折りしも、当時ベトナムを支配していたフランスはドイツの攻撃により勢いが弱まっていた状態であったため、日本はベトナム北部を経由して南部へ進軍するに至った。
この動きを快く思わなかったアメリカは鉄や石油の対日輸出を停止し、総理大臣であった近衛文麿は外交での解決ができないことから内閣総辞職をする。
陸軍相から総理となった東条英機は引き続き外交ルートでの解決を模索したものの、アメリカ国務大臣コーデル・ハルによる通告(ハル・ノート)で中国からの即時撤退が禁輸回避の条件とされたことから、開戦不可避の状況となった。
真珠湾攻撃に当たっては、アメリカの警戒心が薄い方面からハワイに接近するため、赤城・加賀・飛龍・蒼龍・翔鶴・瑞鶴の空母6艦が択捉島から出発をした。
海が非常に荒れており常識では考えられないルートでの敵陣接近は、第2時ポエニ戦争におけるカルタゴのハンニバルがピレネー山脈を越えてイタリア本土に渡ったことを思い起こさせる。
当時の日本人の生活の様子も展示されている。
和傘をさした女性の古風な様子は、とてもアメリカと戦っていたとは思えないものだった。
ましてや、わずかこの数年後には核兵器が実践投入されたわけで、歴史と当時の実際の一般市民の生活に大きなギャップを感じた。
『Road to War』の博物館の向かって右手には『Attack』の建屋。
入口には有名な日本の電信『TORA TORA TORA』が書かれている。
一般には奇襲成功を表す暗号文だと広まっているが、実際にはこれから奇襲を行うという意味で、着弾の前に出されていたものらしい。
爆撃機を運んだ空母赤城の模型や当時の弾丸などが展示されていた。
特に目を引いたのは日本による攻撃の直後の様子を捉えた写真。
アメリカ兵が炎から逃げるのではなく、炎上する方を眺めて状況を理解しようとしている点が、いかに日本の攻撃が想定外だったのかということを浮かび上がらせているように感じた。
博物館の見学を終える頃、ちょうど戦艦アリゾナの集合時刻になったので集合場所に向かった。
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