世界遺産紹介 (15) アウシュヴィッツ・ビルケナウ:ナチス・ドイツの強制絶滅収容所
世界遺産は1,000件を越え、『顕著な普遍的な価値』があると認められた人類共通の遺産です。
その中から、自分が訪れた遺産をご紹介します。
今回はアウシュヴィッツ・ビルケナウ:ナチス・ドイツの強制絶滅収容所です。
公式な分類ではありませんが『負の遺産』の最たるもので、まさに今後の人類への教訓として残されるべきものだと思います。
【目次】
1. 遺産の概要
2. 遺産までの行き方
3. ギャラリー
1. 遺産の概要
遺産名 :Auschwitz Birkenau German Nazi Concentration and Extermination Camp (1940-1945)(アウシュヴィッツ・ビルケナウ:ナチス・ドイツの強制絶滅収容所)
登録年 :1979年
保有国 :ポーランド
遺産区分:文化遺産
登録基準:(ⅵ)歴史上重要な出来事や思想等に関連するもの
2. 遺産までの行き方
まずはポーランドの首都ワルシャワに行きます。
2019年2月時点では成田発のみLOTポーランド航空の直行便が出ていますが、その他の空港からでも欧州の主要都市や中東での乗換えで不便なく行けます。
ワルシャワからは電車で古都クラクフに向かいます。
ワルシャワのCENTRALNA駅からクラクフのGLOWNY駅まで2時間半ほどの行程です。
ワルシャワからクラクフまでは国内線でも移動可能です。
但し、正味のフライト時間以外のロスを考えると電車がお勧めです。
クラクフのGLOWNY駅からオシフィエンチムのOSWIECIM駅まで鉄道で行きます。
OSWIECIM駅からは徒歩20分強でアウシュヴィッツの強制収容所に着きます。
なお、オシフィエンチムはポーランド語ですが、ドイツ語のアウシュヴィッツの方が一般的には知られています。
クラクフからはツアーも出ていますので、そちらも有力な選択肢になります。
アウシュヴィッツ強制収容所の他に、第2アウシュヴィッツとも呼ばれるビルケナウ強制収容所まではシャトルバスで移動できます。
3. ギャラリー
アウシュヴィッツ強制収容所入口に掲げられたサインのARBEITは『労働』、MACHTは英語の『make』、FREIは『自由』を表します。
つまり、『働けば自由になる』という意味ですが、収容所の建設から約70年前に作家ディーフェンバッハが著作の表題に用いたもので、ナチスの言葉ではありません。
単語ARBEITのうちのBはバランスが奇妙で、まるで上限を反転させたようになっています。
収容者の抵抗や皮肉の象徴と言われていますが、実態は当時の流行だったようです。
このサインはオリジナルのものではなく、盗難・破損にあったためにのちに修復されたものです。
ナチスの考えるアーリア人優性主義、特にその中でも最も優れていると考えられたゲルマン民族の至上主義は、他民族の排斥をもたらしました。
ゲルマン人が選民の側に入る一方で、キリスト教徒から区別されたユダヤ人は不幸にもナチスの標的となりました。
陰極線の研究で1905年にノーベル物理学賞を受賞したドイツ人レーナルトはアーリア物理学者の先鋒として知られ、アインシュタインの相対性理論などをユダヤ人物理学として避難したことも知られています。
歴史において、このような目立つ攻撃対象を外部に作ることで内部の結びつきを強化しようとする例は枚挙に暇がありません。
アウシュヴィッツの強制収容所は、1940年にナチス・ドイツのハインリヒ・ヒムラーによって作られました。
ヒトラーの側近として有名なヒムラーは、ナチス親衛隊や秘密警察ゲシュタポの長として権力を奮い、強制収容所を掌握しました。
ヒムラーの部下であったルドルフ・ヘスが初代所長に任命され、敷地内にはヘスが設置した絞首刑台も復元されています。
アウシュヴィッツ強制収容所は、元々がポーランド軍の兵舎であったために比較的堅固な造りではあります。
しかしながら、最大で約2万人という被収容人数に対しては不十分であろう事は誰の眼にも明らかでしょう。
粗末な毛布が折り重なる様は十分な広さがないことを表し、部屋にかけられている絵には被収容者が管理側に棒で殴打される様子が描かれています。
自身が行った2016年末の気温は-16℃で、建物の外は底冷えするような寒さでした。
現在は博物館として訪問者の利便性を考えた温度管理にはなっているはずですが、それですら寒さを感じます。
建物外部に広がる敷地は電流の流れる鉄条網で覆われており、脱走を阻んでいました。
悲観した被収容者が自ら飛び込み、自死する例も多かったといいます。
死の壁は銃殺が行われた場所で、今も花が手向けられています。
向かって右の11号棟で行われた形式的な裁判で『有罪』が確定し、衣服を剥がされた後でこの壁を背にして銃殺されていったのです。
11号棟には他にも、1辺が1mにも満たず4人を立たせて収容した立ち牢や、餓死させるまで収容者を閉じ込めた餓死室が残っています。
餓死室で処刑された人物の中にはコルベ神父がいます。
当時の規則で、棟から脱走者が出た場合は脱走者1名につき被収容者10名が飢餓刑に処されることとなっていました。
コルベ神父は、飢餓刑の対象に選ばれた妻子あるポーランド人軍人の身代わりとして、自ら進んで飢餓刑を受けて亡くなりました。
のちにコルベ神父は、カトリック教会により列聖されています。
向かって左側の10号棟の窓は、目隠しがされています。
これは、収容者に銃殺が見られると集団で反逆される可能性があるため、見られないように細工がなされているのだそうです。
この10号棟では、麻酔がない状態での神経移植や双子の外科的結合などの凄惨な人体実験も行われていました。
これから収容される人々がアウシュヴィッツに到着すると、まずは『選別』を受けました。
労働力や人体実験の被験者として役に立ちそうであれば生かし、そうでないと判断された人、具体的には女性や老人、障害者などは直ちにガス室に送られました。
中には、児童の集団と引率の教師がまとめてガス室に送られる事例もあったようです。
アウシュヴィッツ強制収容所の初代所長ヘスは、到着直後に7割以上の人間がガス室に直行だったと証言しています。
ガス室では、青酸化合物であるチクロンBによって被収容者が殺害されていきました。
足元から充満するガスから逃げるため、逃げようとした人間は先に息絶えた人間の上に登って新鮮な空気を求めました。
そのため、処刑後にガス室の扉を開けると死体が山のように盛られていたのだそうです。
こうしたホロコーストにより、おびただしい犠牲者が『量産』され、今でも正確な犠牲者の人数は判っていません。
一般には、150万人~600万人とされています。
犠牲者は近くの焼却炉で焼かれたのですが、焼く側も被収容者でした。
通常の被収容者よりもまともな食事が与えられて待遇は良かったそうですが、一方でホロコーストの実態を隠そうとするナチスにより、数ヶ月程度で自身も殺害されました。
増え続ける被収容者に対応するため、アウシュヴィッツ強制収容所開設翌年の1941年には、第2アウシュヴィッツと呼ばれるビルケナウ強制収容所が作られました。
ポーランド語でブジェジンカと呼ばれる村があった場所で、ドイツ語ではビルケナウとなります。
正門の奥まで列車の線路が延び、被収容者を中に直接引き入れることが可能でした。
現在では、強制収容所の象徴的な光景となっています。
ビルケナウ強制収容所には、最大で一時9万人もの人々が収容されていました。
復元された当時の建物が一面に広がり、アウシュヴィッツ強制収容所より人口密度は低いように見えますが、建物内部の過密さはアウシュヴィッツのそれを上回るものだったようです。
ビルケナウ強制収容所には、建物が復元されたエリアと煙突のみが残るエリアに分かれます。
これは、ソヴィエトの侵攻備えてナチスが建物を燃やして証拠隠滅をはかった名残です。
薪がくべられることは無かった見せ掛けのレンガ製暖炉だけが、隠滅の炎を生き延びたということです。
もともと軍舎であったアウシュヴィッツ強制収容所とは異なり、ビルケナウ強制収容所は馬小屋を改築したり捕虜が一から作ったものでした。
冬の冷気は容赦なく吹き込み、被収容者を苦しめたでしょう。
土壌も湿地であったために建て付けは悪く、排水も不十分で伝染病が常に蔓延している状況だったといいます。
3段のベッドにも1段当たり複数人が割り当てられ、足を伸ばして寝るスペースもありません。
また、中に敷かれた腐った藁が布団の代わりとなったのです。
アウシュヴィッツを訪れると、視覚情報として人間の負の側面を残す意味の大きさを強く実感できます。
この大規模な人類の狂気が、教訓として後世に生かされることを願ってやみません。