世界遺産紹介 (7) カルタゴの考古遺跡

世界遺産は1,000件を越え、『顕著な普遍的な価値』があると認められた人類共通の遺産です。
その中から、自分が訪れた遺産をご紹介します。

今回はカルタゴの考古遺跡です。
アフリカ北岸のチュニジアで最も有名なディスティネーションとして知られ、ローマと争った歴史がよく知られています。
首都チュニジアから日帰りで行くこともできるアクセスの良さも魅力です。

【目次】
1. 遺産の概要
2. 遺産までの行き方
3. ギャラリー

1. 遺産の概要

遺産名 :Archaeological Site of Carthage(カルタゴの考古遺跡)
登録年 :1979年
保有国 :チュニジア
遺産区分:文化遺産
登録基準:(ⅱ)価値観の交流、(ⅲ)文化的伝統・文明の証拠、(ⅵ)歴史上重要な出来事や思想等に関連するもの

2. 遺産までの行き方

まずはドバイやイスタンブールなど中近東方面の主要都市からチュニジアの首都チュニスに向かいます。

チュニスからはタクシーなどで30分ほどでカルタゴ遺跡に着きます。
ちなみに、チュニスの旧市街自体も世界遺産に登録されています。

更に徒歩でも行ける距離にはアントニヌス浴場もあります。

当時の港も残り、アントニヌス浴場からは徒歩圏内です。

3. ギャラリー

カルタゴは、フェニキア人により紀元前9世紀末頃に建設された殖民都市を起源とする都市国家です。
フェニキア人は紀元前3000年頃から地中海東岸で活躍し、降水量が少ない土地で育つために目が細かく耐久性に優れたレバノン杉で船を作り、紀元前12世紀頃には地中海で勢力を誇りました。

紀元前3世紀の中頃にはローマとシチリア島を巡って対立し、第一次ポエニ戦争が引き起こされました。
『ポエニ』とはラテン語、つまりローマ側の言葉でカルタゴ人を指します。
辛くも勝利したローマにより、カルタゴは多額の賠償金を負わされることとなりました。

遺跡に隣接する博物館には、モザイク画などの美術品が多数展示されています。
戦争では敗れたものの、カルタゴはその強固な交易網で大きな利益をあげていたのです。

カルタゴは第一次ポエニ戦争で敗れた後、半世紀も経たない紀元前3世紀終わりに第2次ポエニ戦争で再び戦いました。
ここで活躍した著名なカルタゴの将軍がハンニバルです。

父ハミルカルが現在のスペインに築いた植民都市を戦象や歩兵集団を率いて出発し、ハンニバルはピレネー山脈・アルプス山脈を超えてイタリア半島に侵入ました。
その後ハンニバルはローマに連勝を重ねますが、シチリアからカルタゴに渡ったローマと戦うために戻った先で、ザマの戦いにおいて大スキピオ将軍に大敗を喫しました。

第2次ポエニ戦争の敗北で、カルタゴは再びローマによって多額の賠償金を課せられただけではなく国外領土も奪われました。
しかし、政治家として頭角を現したハンニバルの指導で経済力を回復したカルタゴは、当初は50年かかるはずだったローマへの賠償金の支払いを僅か10年で完済してしまいます。

当時のカルタゴの待ちの様子が絵として残っています。
手前の円形の港が軍港、その手前にある長方形の港が商港です。

少し形は変わっていますが、今でも港の跡は残っています。
地図でも確認することができます。

第2次ポエニ戦争から半世紀以上経った紀元前2世紀中頃、その経済力を恐れたローマと三度戦うことになりました。
ローマとカルタゴの最後の戦いとなった第3次ポエニ戦争です。

カルタゴが隣国ヌミディアと争った際に、第2次ポエニ戦争でカルタゴが約束させられた『ローマの承認のもとでの軍事行動』ではなかったとローマから指摘をされたことが始まりでした。
ローマは乗じてカルタゴの武装解除をさせただけではなく、カルタゴの内陸への移転を提示しました。
海洋貿易で経済が支えられているカルタゴにとって承服できるものではなく、移転を拒否したカルタゴはローマにより周辺を包囲された状態での開戦だったと言われています。

第3次ポエニ戦争は、補給路を経たれたカルタゴが多数の餓死者を出しながらも3年ほど持ちこたえました。
しかし、紀元前146年に陥落し、生き残ったカルタゴ人は全員殺害もしくは奴隷化の上、土地には塩を撒いて徹底的な再興防止策がなされたといいます。
それだけ、ローマにとってカルタゴは脅威だったということです。

現在遺跡として見ることができるカルタゴの様子は、後世にローマが再建した街です。
五賢帝の1人として知られるアントニヌス・ピウスの時代に建てられた浴場跡も残っています。

アントニヌス浴場はローマ帝国が築いた浴場の中でも、ローマにあるカラカラ浴場やディオクレティアヌス浴場に次ぐ規模だったとされます。
つまり、イタリア半島外のローマ浴場では最大ということになります。
ローマ時代の後も使用されていましたが、7世紀になってウマイヤ朝が進出すると放棄されました。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)