世界遺産紹介 (11) 文化交差路サマルカンド

世界遺産は1,000件を越え、『顕著な普遍的な価値』があると認められた人類共通の遺産です。
その中から、自分が訪れた遺産をご紹介します。

今回は文化公差路サマルカンドです。
数あるシルクロードの要衝の中でも最も有名で、その美しい名前の響きだけでなく、有名なサマルカンドブルーが旅人を魅了してやみません。

【目次】
1. 遺産の概要
2. 遺産までの行き方
3. ギャラリー

1. 遺産の概要

遺産名 :Samarkand – Crossroad of Cultures(文化交差路サマルカンド)
登録年 :2001年
保有国 :ウズベキスタン
遺産区分:文化遺産
登録基準:(ⅰ)人類の傑作、(ⅱ)価値観の交流、(ⅳ)人類史上代表的段階の建築・技術や景観


2. 遺産までの行き方

成田からウズベキスタン航空の直行便が運航されていますが、曜日が限られているために現実的には東アジアでの乗換便を利用することになると思います。
まずは日本各地から仁川もしくは北京へ飛び、乗り継ぎでウズベキスタンの首都タシュケントまで向かいます。

タシュケントからはウズベキスタン高速鉄道で約2時間です。
公式サイトからチケットを買うことができます。

3. ギャラリー

サマルカンドは紀元前10世紀頃に興ったオアシス都市を起源とします。
『サマル』は人が行き交う、『カンド』は街を意味し、まさにシルクロードの中継地点として東西の文化が溶け合う様子を表した名前です。

紀元前4世紀に遠征で訪れたアレクサンダー大王や7世紀に訪れた玄奘は、街の美しさを称えたといいます。
8世紀のウマイヤ朝クタイバの侵攻以降に唐から紙の製法が伝わったことが有名で、以降はイスラム化が進み9世紀後半~10世紀末のサーマン朝時代を経て、カラ・ハン朝、西カラ・ハン朝、ホラズム・シャー朝の首都として栄えました。

しかし13世紀初頭、ホラズム・シャー朝がモンゴル帝国から遣わされた通商使節団を虐殺し金品を奪うオトゥラル事件を契機とし、チンギス・ハンによる征西が始まりました。
その過程で世界史が大きく変化したことは言うまでもありまえせんが、サマルカンドも壊滅的な被害を受けました。

1370年、モンゴル帝国から分裂し成立していたチャガタイ・ハン国の内紛に乗じてティムールが独立します。
サマルカンドはティムール朝の首都と定められ、復興や開発が進みました。
シリア遠征の際には、ほぼ同時期に生きた歴史家イブン・ハルドゥーンをダマスカスから呼び出し、様々な異国の知識などを伝達されたといいます。

グリ・アミール廟はティムールの墓所です。
ティムールの生まれ故郷シャフリサブスと同様にブハラ・ハン国の破壊を受けましたが、ソヴィエトからの独立後に修復されました。

明への遠征途上にオトゥラルで亡くなったティムールは、生前に希望していたシャフリサブスではなく、サマルカンドに葬られました。
かつてモンゴルによりサマルカンドが破壊を受けるきっかけとなったオトゥラルで、サマルカンド再興者のティムールも亡くなったという点が歴史の面白いところだと思います。

なお、安置されている石棺のようなものは棺ではなく、地下の墓所を示す墓石です。

サマルカンドで最も有名な光景であるレギスタン広場は、自身が行った2013年5月には大規模な修復中でした。
『レギスタン』は砂地を表し、もともとあった運河の堆積土から広場が形成されのです。

広場を囲む3つの建物はマドラサ(メドレセ)です。
マドラサはイスラム神学校と訳され、イスラム狭義の研究や講義が行われる場所でした。
近年は地盤沈下がひどく、歪んだタイルなどが修復の対象になっていました。

正面は修復中でしたが、脇から見ると修復中とは思えない素晴らしい光景でした。
これらのマドラサは15世紀から建築が始まったものであるため、アレクサンダー大王の遠征やその約1000年後の玄奘の訪問の時代にはなかったものです。
モンゴルによる破壊の後にティムールはここにバザールを置いて復興の足がかりにしましたが、4代目君主のウルグ・ベクがマドラサを建てて以降、現在の様相に近づいていきました。

なお、ウルグ・ベク・マドラサはレギスタン広場を正面から見て向かって左側のマドラサです。

ビビニハム・モスクは、ティムールの妃の名が冠せられています。
15世紀初頭としては世界最大級であったものの、高さに不満を抱いたティムールによってミナレットの追加が命じられました。
5年程度で完成させるという突貫工事であったことや、当初予定になかったミナレットの追加による荷重過多の問題により、完成後ほどなくして部分的崩落が見られるようになったようです。

そのため17世紀半ば、レギスタン広場の正面中央にティラカリ・マドラサが建てられました。
その建設経緯から、ティラカリ・マドラサはマドラサでありながらも支配層のモスクとしても機能しました。

シャヒ・ズィンダ廟群は9~19世紀の廟などの建築複合体です。
唯一モンゴル襲来前から残るクサム・イブン・アッバース廟は『アッラーへの奉仕中に殺された人間を死んでいると考えるな。生きている。』との記述が残っています。
ムハンマドの従兄弟であった彼が7世紀、アラブ世界伸張のための遠征に参加し、サマルカンド近くで礼拝中にゾロアスター教徒に襲われ死亡したためです。
その伝承が、『生き続ける王』を表すシャヒ・ズィンダの名前の由来になっています。

シャヒ・ズィンダ廟群の特徴は、なんと言ってもその青でしょう。
ティムールが青を好んだことに由来すると言われ、青の都サマルカンドを象徴する場所です。
また、ウズベキスタンの人々の間ではシャヒ・ズィンダ廟群を2回礼拝すればメッカの礼拝1回に相当するとされるほどの権威を持つものです。

素晴らしい建築や歴史だけではなく、中央アジアの足がかりとして行きやすい場所であるため、非常にお勧めします。

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