世界遺産紹介 (2) エルサレムの旧市街とその城壁群
世界遺産は1,000件を越え、『顕著な普遍的な価値』があると認められた人類共通の遺産です。
その中から、自分が訪れた遺産をご紹介します。
今回はのエルサレムの旧市街とその城壁群です。
他の多くの旅行者と同様、旅行前には聖書やコーランの知識を多少なりとも付けてから行きました。
エルサレムを楽しむための大きな助けになったことは言うまでもありません。
【目次】
1. 遺産の概要
2. 遺産までの行き方
3. ギャラリー
1. 遺産の概要
遺産名 :Old City of Jerusalem and its Walls(エルサレムの旧市街とその城壁群)
登録年 :1981年
保有国 :エルサレム(政治的事情により、ヨルダンが『エルサレムを保有』として代理申請しました)
遺産区分:文化遺産
登録基準:(ⅱ)価値観の交流、(ⅲ)文化的伝統・文明の証拠、(ⅵ)歴史上重要な出来事や思想等に関連するもの
2. 遺産までの行き方
ドバイなど中東の主要都市から、空路でエルサレムまで向かうルートが代表的です。
一方で、隣国のヨルダンからヨルダン川に架かるアレンビー橋(キング・フセイン橋)を渡ってイスラエルに入国することもできます。
自分は2013年にこちらのルートで入国しましたが、イランのスタンプがあったため、入国審査に6時間以上かかりました。
3. ギャラリー
エルサレム市内のオリーブ山からはエルサレム旧市街の全景が見渡せます。
印象的なのが金色の屋根を持つ岩のドームで、第3次中東戦争以降イスラエルが実効占拠している東エルサレムの地区にあります。
イスラムの開祖ムハンマドが大天使ガブリエルと共に昇天した場所の跡とされ、メッカやメディナに次ぐイスラム教の聖地です。
7世紀末、ウマイヤ朝のカリフによって現在のドームの原型が作られました。
嘆きの壁はユダヤ教の聖地です。
紀元前1,000年ごろに建国された古代イスラエル王国は紀元前6世紀に新バビロニアによって滅亡し、多くの住民がバビロンに連れ去られた事件はバビロン捕囚として広く知られています。
約半世紀後に新バビロニアを滅ぼしたアケメネス朝ペルシアのキュロス2世により帰還が許され、エルサレムには神殿が築かれユダヤ教が確立しました。
紀元前1世紀のヘロデ王の時代には大幅に拡張されしたが、ローマ帝国の侵略により紀元後70年、エルサレムは陥落し焼け跡として残ったのが嘆きの壁です。
夜間に染み込んだ水蒸気が涙のように壁にしみを作って滴り落ちる様が泣いているように見えることも、名前の由来とされます。
オリーブ山の麓にあるゲッセマネの園には万国民教会が建ち、その内部にはイエスが最後の晩餐の後に捕らわれる直前まで祈りを捧げていたとされる岩が残っています。
聖墳墓教会は、イエスが十字架で処刑されたゴルゴダの丘の跡とされる場場所に建つ教会です。
キリスト教を公認したミラノ勅令で知られるローマ帝国のコンスタンティヌス帝の母へレナが、4世紀前半に磔刑で使用された釘や十字架の破片を見つけたことから、ここをゴルゴダの丘と定め聖墳墓教会を建設しました。
聖墳墓教会の中のハイライトである、ゴルゴダの丘跡です。
磔刑の十字架が立てられたとされる穴が残っており、立派な装飾がなされています。
多くの人達が祈りを捧げるために列を作っていました。
ヘレナが4世紀前半に定めたキリストの墓『エディクラ』とされる場所も残っています。
磔刑後にここにキリストが埋葬され、その後復活したとという場所です。
何度か再建されており、ここが本当に4世紀にキリストの墓とされた場所なのかという議論が長らくおきていました。
しかし、2016年のエディクラの修復の際に内部から採取された漆喰の分析結果によって、確かにオリジナルは4世紀中盤に建てられていることが判明しました。
真にキリストの墓かどうかという決定ができるものではありませんが、少なくとも4世紀にキリストの墓と定められたことは立証されたことになります。
鶏鳴教会は、イエスからペテロが受けた『あなたは鶏が鳴く前に3度、私を知らないと言うだろう』という予言にちなんでいます。
イエス逮捕後に周囲の野次馬からイエスの一味であることを指摘されたペテロが、自身に危害が及ぶことを恐れて3回目の否定をすると鶏がけたたましく鳴いたという言い伝えを表す像が残っています。
ペテロはイエスから受けた予言を思い出し、激しく泣いたといいます。
ユダヤ教・キリスト教・イスラム教という世界の主要宗教にとって重要な街エルサレムの訪問は、一層それらを勉強したいという強い動機付けになりました。