キプロス旅行記 (3) フライトキャンセルの幸運とニコシア観光(2019年1月)
2018年末から2019年始にかけてエジプト~クウェート~レバノン~キプロスを周遊しました。
キプロスのラルナカ観光を終えて空港に向かったのですが、フライトキャンセルで余分に1泊することになりました。
帰国の予定自体は狂いましたが、時間ができたので予定外だったニコシア観光をすることができました。
【目次】
1. 天候不順でのフライトキャンセル
2. ニコシア宿泊と代替航空券確保
3. 北キプロスとニコシア
1. 天候不順でのフライトキャンセル
1月5日(土)、朝にレメソス(リマソール)からバスでラルナカまで移動し、短時間の観光を終えてからラルナカ空港まで来た。
14時になるとチェックインが始まったので手続きをすると、カウンターから『17時発の予定が現時点で1時間半くらい遅れそうなので、サインをよく見るように』と言われた。
17時5分ラルナカ発~19時50分ミュンヘン着、22時25分ミュンヘン発~翌日16時35分上海発というフライトだったので、もしかしたらミュンヘンの乗継ができず宿泊になるかもしれないと思った。
予定より1日かかってしまうが、それは悪くない。
セキュリティチェックや出国審査を済ませ、Aspire Aphrodite Exectiveラウンジに入った。
3日前までいたレバノンのラウンジは『Cedars』は謳い、キプロスでは『Aphrodite』が謳われる。
こういった、国を一意に連想させる名付けは面白い。
ラウンジで食事をしつつ、ときたま出発状況の電子ボードを見るようにする。
入った時点ではDelayだったのが、少し経ってから見るとCancelledに変わっていた。
慌てても仕方がないのでシャワーでも浴びようとすると、ラウンジの係員がやってきてゲートに行って今後の指示を仰ぐように言われた。
そのため、ラウンジを15分程度で後せざるを得ず。
本来の出発予定自国の2時間前の15時という時間にも関わらず、ゲートには乗客とルフトハンザ航空の係員が集まっていた。
フライトキャンセルの理由は到着地ミュンヘンの天候不順であること、代替便は各自で取ったeチケットのシステムにアクセスして確認するよう告げられた。
指示通り代替便を確認すると、本来の17時過ぎラルナカ発~ミュンヘン行の便の代わりに19時過ぎラルナカ発~ドーハ行という、カタール航空の代替便のeチケットが表示されていた。
その内容をルフトハンザ航空の係員に見せると、そのeチケットは無視してキプロスに再入国して1泊し、その間にルフトハンザから代替便の連絡をするとの事だった。
最初の指示と違うので食い下がったが、ともかく再入国をしろとのことで、乗客全員で預け荷物を受け取って再びキプロスに入国した。
その後、空港外のバスまで誘導され、バスの近くにいたルフトハンザ航空の別の係員に、改めてカタール航空の代替便がeチケットシステムに表示されている旨、それを使えばキプロスに1泊することなく帰れる旨を伝えた。
しかし、とりあえずはルフトハンザが取ったヒルトンに泊まるよう指示された。
2. ニコシア宿泊と代替航空券確保
ラルナカ空港からはルフトハンザ航空が用意したバスで、キプロスの首都ニコシアに向かった。
ニコシアでは、キプロス唯一の5つ星ホテルであるHilton Cyprusに通された。
自分では絶対に泊まらない系統のホテル。
バスの車中、隣にたまたま座っていたバングラディッシュ人から話しかけられた。
英語が自分以上にできないようで、そもそも何が起きているのか解っていない様子だった。
ゆっくりはっきりと、繰り返し英語で説明すると解ってもらえた。
ホテルに到着する頃には既に夕方の17時頃で、すぐにチェックインをした。
こういった場合、チェックインの際にはバスを降りたら少しでも早くレセプションに行って済ませたほうが良い。
短い間に膨大な人数がチェックインをすることになるので、レセプション到着が1分遅れると30分くらい余計に待つ羽目になると思う。
改めてのルフトハンザ航空の説明では、今日中に代替便の連絡をするので、搭乗時間に応じて明日は各自タクシーでラルナカ空港に向かい、タクシー代は後でルフトハンザ航空に請求するように言われた。
後でバングラディッシュ人が部屋にやってきて、その内容が理解できていなかったらしく、改めて説明した。
ルフトハンザが手配したホテルには、食事もついていた。
この旅で、ホテルで食事をすることは初回で嬉しかったのだが、フライトキャンセルにあった乗客で混雑していてあまり落ち着いて食べられなかった。
席が満杯なのでウェイターがとにかく片付けたがり、料理を取りに行っている間にも皿が片付けられて席が取られてしまうという始末。
食事を終えた20時頃になっても、ルフトハンザ航空から代替便の連絡は無い。
十分想定の範囲内で、そもそも自分は連絡が来るなどと全く思っていなかった。
この時間ではそもそもルフトハンザ航空の予約センターの従業員も働いていないだろう。
このまま黙っていると明日になり、その時点でルフトハンザ航空に電話をかけた時点で当日の代替便が用意できるとは限らず、更に翌日に回される危険性すらある。
そのため、日本にいる奥さんと時差を利用しようと考え、キプロス時間20時・日本時間深夜3時のうちに現状を奥さんにメールをしておき、日本時間の翌朝に今回の特典航空券を取ったANAのSFCデスクに電話してもらえるよう根回しをしてから寝た。
3時間ほどだけ寝て、翌日1月6日(日)のキプロス時間で深夜0時過ぎに起きた。
日本時間7時過ぎの奥さんに電話すると、前夜のメールは読んでくれたようだ。
メールで伝え切れなかった点も会話で補足して一層状況を理解してもらい、ANAのデスクが開く日本時間8時・キプロス時間深夜1時にすぐに電話をしてもらった。
予想していたことだが、ANAで取った特典航空券とはいえルフトハンザ航空の便なので、直接ルフトハンザ航空に問い合わせるよう言われたらしい。
日本のルフトハンザ航空の電話受付が開始される日本時間9時・キプロス時間2時に、奥さんからルフトハンザ航空に電話してもらった。
奥さんがルフトハンザ航空に事情を説明すると、『なぜeチケット画面で表示されていた当日のカタール航空の代替便に乗らなかったのか?』と聞かれたようだ。
それに乗らずに用意されたホテルで1泊しろとキプロス現地では言われたからこの状況になっているわけだが、それを言っても仕方がない。
結果的には今日の19時半ラルナカ発のエミレーツ航空便を代替として用意してもらうことができた。
当初の1月5日(土)17時ラルナカ発からは1日以上遅れる1月6日(日)19時半ラルナカ発へと変更になったことになる。
無事に代替便を取ることができたので、二度寝した。
3. 北キプロスとニコシア
4時間ほど寝て朝7時にホテルの朝食に行った。
昨晩とは違い、フライトキャンセル組は一般宿泊客とは違う場所での食事だった。
キャンセルにあった人達ばかり集まるので、必然的に昨日にルフトハンザ航空から代替便の連絡が来たかどうかという会話があちらこちらでなされる。
周囲に聞き耳を立てていると、誰も連絡が来ていないらしい。
それはそうだろう。
自分も周囲のドイツ人からルフトハンザ航空からの連絡有無を聞かれたので、『連絡は無かったので、深夜のうちに日本のルフトハンザ航空に依頼して代替便の確保は終わった』と言うと驚かれた。
待っていれば連絡が来ると信じているようだったが考えが変わり、空港に行くなりルフトハンザ航空に問い合わせるなりのアクションをする気になったようだ。
空港に行くと言っている人に対しては参考までに、『ラルナカ空港発のルフトハンザ運行便は昨日キャンセルになった17時発の便しかないので、今行ってもカウンターは開いていないと思う』と伝えた。
代替便の手配では、被害者だからといって受身になっていると放置されるので、積極的に動くべきだ。
代替便の手配さえできていれば慌てる必要もないので、せっかく意図せずに来ることができたニコシアを観光の情報を部屋で調べた。
調べつつ3度寝を挟んでいたらいつの間にかチェックアウト期限ぎりぎりの昼になってしまった。
12時にホテルをチェックアウトして、徒歩で北キプロスに向かう。
ホテルから北に向かって歩き、Ledra通りへ。
ニコシアの主要な観光通りで、多数の土産物屋や飲食店が軒を連ねる。
日本人観光客も何人かいた。
Ledra通りを北に向かうと、キプロスと北キプロスの『国境』に着いた。
一応の出国手続にはなるが、実際はパスポートの確認程度でスタンプは押されない。
1人あたりの確認時間も短いので、行列にはなっていなかった。
キプロスを出て北キプロスの入国審査に向かう。
間の緩衝地帯は50mほどで、建物に挟まれた細い路地になっていた。
北キプロスの入国審査でも、簡単なパスポートの確認だけでスタンプは無し。
ただ、事前にネットで色々調べていると、中にはスタンプを押された事例があるようだ。
北キプロスは国際社会的には正式な国ではないとされるので、北キプロスのスタンプが押されてしまうと再びキプロスに戻れないという話がある。
そのため、押されそうになったら止めようと思ったのだが、杞憂だった。
念のため、在キプロス日本大使館のサイト簡単には見ておいた方がいいと感じる。
北キプロスに入ると、同じニコシアという街ながらも一気に雰囲気が変わった。
建物の背が比較的低い上に直線的でやや古いというだけではなく、商店の値札にTRY(トルコリラ)の表記があることがそう思わせるのだろう。
1914年の第一次世界大戦勃発を機に、イギリスはオスマン帝国からキプロスを一方的に併合した。
イギリスにとっては対エジプト戦略などの重要な拠点ではあったが、第二次世界大戦後にキプロス内で起きたギリシャへの併合運動などもあり、キプロスは1960年にイギリスから独立をした。
独立の後も、もともとの住民であるギリシャ系住民とオスマン帝国に由来するトルコ系住民の間で紛争が続き、トルコ住民を多く抱えるキプロス北部はトルコの支援の下で1983年に北キプロスとして独立を宣言した。
但し、このような経緯から北キプロスを国家承認しているのはトルコのみとなっている。
キプロスと北キプロスの間は東西約300kmに及ぶグリーンラインで仕切られ、首都ニコシアはグリーンライン上にあるために南北に分断されている。
世界で唯一、『国』をまたいだ首都である。
国境を越えた後、まず向かったのはビュユック・ハン。
16世紀からオスマン帝国がキプロスを支配していた時期に作られた隊商宿で、
モスクも併設されている。
現在は一部カフェなどに改装されており、2階からの眺めが良い。
続いて、セリミエ・モスクへと向かった。
ビュユック・ハンのすぐ近くにあり、セリミエ・モスクとの間には飲食店街が立ち並んでいて、食事ができる雰囲気。
セリミエ・モスクは、入口の尖頭アーチや外壁側面の飛び梁などゴシック建築の特徴が見られる。
それもそのはずで、そもそもは13世紀から14世紀にかけて建てられた教会が元になっており、16世紀のオスマン帝国統治下でモスクとして利用されたためだ。
外観は教会ながら、内部に入ると確かにモスクとして利用されている。
そう言えば、協会がモスクとして利用されている事例は色々なところで見るが、逆はあまり見たことがない気がする。
セリミエ・モスクを出て、伝統家屋が並ぶ一帯にやってきた。
長屋のような外観で、現在も普通に生活で使用されている場所なので特に説明書きもなく、歴史的背景などはよく解らなかった。
ただ、猫が異様に多かったことは印象に残った。
2時間ほど北キプロス側のニコシア散策を終えて、再びキプロス側のニコシアに戻った。
北キプロスの出国とキプロスの再入国は何ら問題なくスムーズだった。
キプロスに戻ってきたので、どこかで食事をすることにした。
あまりお腹は空いていないが、クレジットカード付帯の海外旅行保険で2万円を上限に飲食ができる。
せっかくなので、Ledra通りにある寿司屋で食べることにした。
生ものは苦手で、くら寿司などで牛カルビ寿司などしか食べられないことと、ありそうでなかった国外の寿司を食べるという経験をしてみたかったため。
結果的には無難なものが出てきて普通に食べられた。
揚げ物なども追加してEUR25.5(約3,250円)。
食事後は、そのままタクシーを捕まえてラルナカ空港まで向かった。
後でルフトハンザ航空に請求ができるので、非常に気軽。
ニコシアからラルナカ空港まではタクシーで50分ほどで、料金はUER45(約5,740円)。
16時に着いたもののエミレーツ航空のチェックインが始まっていなかった。
事前にオンラインで出していたチケットでセキュリティチェックと出国を済ませ、ラウンジで時間を潰しながら19時半ラルナカ発~ドバイ行の便を待った。
今度はフライトキャンセルなどのトラブルに見舞われること無く、予定通り19時半に出発した。
翌日1月7日(月)の深夜1時にドバイに到着し、約3時間後の関空行に乗り継いで無事に日本に帰国することができた。
今回もフライトトラブルに遭遇したものの、1日以上後の便であった上に元の旅程では行く予定の無かったニコシア宿泊だったため、ニコシアの観光ができた。
1日くらいの遅れであればまだ職場への影響も少なく、結果的には幸運だったと言える。
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