エジプト旅行記 (3) アブシンベルとアスワン観光(2018年12月)

2018年末から2019年始にかけてエジプト~クウェート~レバノン~キプロスを周遊しました。
エジプト到着初日に朝からピラミッドとカイロを観光し、夜の便でアスワンに来ました。
今回は、翌日のアブシンベルとアスワン観光です。

【目次】
1. アブシンベル神殿
2. アスワン

1. アブシンベル神殿

12月30日(日)、カイロからの移動でアスワンでは深夜0時を過ぎてのホテルチェックインだったにも関わらず外国人観光客が廊下で騒いでいたので深くは眠れなかった。
そんな中でも、今日は遠方のアブシンベルに向かうツアーに参加するために早朝3時に起床。

カイロのベニス細川家ホテルで手配してもらったアブシンベル1日観光ツアーは3,500円と安く、完全な自己手配でのバス移動などに比べると費用はかかるが、時短の効果はそれを大いに上回るためにありがたく利用させて頂いた。
但し、遺跡の入場料は別途かかる点やツアーと言いながらも実際は往復の交通手段手配に近いという事は留意する必要がある。
個人的には、それを差し引いても大いに利用価値はあると思う。

3時半頃にホテルにツアーのピックアップの係員が来て、一緒に集合場所まで徒歩で向かった。
鉄道のアスワン駅の周囲が集合場所らしい。

待ちながら、係員はあちこちに電話をしていた。
他にも大勢のピックアップすべき顧客を抱えているようで、彼は主に日本人の担当らしい。
といっても日本語は全く解らず、ところどころで彼が日本人に対してかけている電話を自分に代わらされて、係員が英語で話すピックアップ時間や場所などの内容を自分が電話で日本人に伝えるという妙な役回りをさせられた。
電話口の向こうの日本人達も、何故日本人観光客が電話をかけてきているんだろうという反応で面白かった。

4時過ぎに自分のバスがやってきて、係員に促されて乗り込んだ。
その時点ではバスに乗っていたのは日本人観光客ばかりだったが、途中であちこちのホテルをピックアップして回っているうちに日本人観光客も乗ってきて、隣で話しをしながらアブシンベルに向かった。
ツアーのバスの社内ではアブシンベル神殿の入場券も買うことができ、EGP215(約1,330円)だった。

途中で休憩を挟みながらも出発から4時間以上かかって、朝8時半頃にアブシンベル神殿に到着した。
一帯はヌビア地方と呼ばれ、金をはじめとした鉱物資源に恵まれたために古語で金を意味する『ヌブ』に由来している。

遺跡自体の入場料は既にバスの中で買っているので不要だが、神殿内部の写真を撮る場合は入口でカメラチケットEGP300(約1,860円)を別途購入する必要がある。

ゲートを過ぎて左右の分岐を右に少し進むと、すぐにアブシンベル神殿が見えてきた。
アスワン発だと物理的に絶対に間に合わないが、アブシンベルに泊まっている場合は早朝5時からのオープンで入ることができるため、既に結構な数の観光客がいる。

アブシンベルには、アメン・ラー神を祀る大神殿とハトホル神を祀る小神殿の2つがある。
いずれも紀元前13世紀、新王国時代第19王朝の最盛期を現出した王ラムセス2世が建造したものであり、ギザのカフラー王ピラミッド前にあるスフィンクスと同様に岩窟を掘り進めて作られた。
ラムセス2世は、既に紀元前16世紀には支配下に置いていたヌビア地方の更に奥へと征服を進め、その勢力を拡張した。

まず向かったアブシンベル大神殿の正面は、高さ20mを超える4体のラムセス2世像で飾られている。
向かって左端の青年像から右端の老齢像まで異なる4時期のラムセス2世を表しているが、左から2番目の像は当時の地震で顔が崩落してその足元に転がっている。
各像の足元には王妃や血縁者の小像が並んでいるが、その大きさはラムセス2世像と比べるべくもない。

入口の左右の壁にはラムセス2世の治世中に遠征をしたシリアやヌビアで捕虜にされた人々が首に縄をつけられて連行される様子も描かれていた。
シリア遠征のハイライトが、世界最古の和平条約が結ばれたカデシュの戦いであり、記録に残る範囲での世界最古の国際戦争でもある。

神殿内部にはカデシュの戦いで勇ましく戦車に乗るラムセス2世のレリーフをはじめ、ラムセス2世の立像などが立ち並ぶ。
最深部には向かって左から創造神プタハ、テーベの守護神アメンと太陽神ラーの習合であるアメン・ラー、ラムセス2世、太陽神ラーと天空神ホルスの習合であるラー・ホルクアティの4体の石造が並び、ラムセス2世の誕生日と即位日にのみ日の出の光が当たる角度に設計されているという話はよく知られている。

アブシンベル大神殿は、もともとはこの位置にあるものではなかった。
1950年代に当時のエジプト大統領ナセルがナイル川の治水や経済発展を目的にアスワン・ハイ・ダムを計画し、神殿がダムの底に沈むことを知ったユネスコの呼びかけで50ヶ国もの国が協力する国際プロジェクトが始まり、大神殿を800個以上のブロックへ分割して現在の高位置に再構築された。
現在の神殿がある岩山は、移設後の神殿を収めるために内部がくり抜かれてドーム状になっている。

余談だが、ナセル大統領がアスワン・ハイ・ダムの建造費を賄うためにイギリス・フランス共同管理となっていたスエズ運河の国有化を一方的に宣言したことが、スエズ動乱、つまり第2次中東戦争のきっかけとなった。
スエズ運河はエジプト政府とそれに資金援助をしたフランスによって作られたのだが、その重い財政負担によってエジプトの経営権はイギリスに売却されていたのだ。

アブシンベル神殿救出の一件が契機となって遺跡を各国共同で守る機運が生まれたことは、世界遺産の誕生に大いに関わっている。
ほぼ同時期の1972年にはアメリカのイエローストーン国立公園が世界初の国立公園として100周年を迎えるに当たり、自然保護の国際的機運も高まった。
この流れを受け、1972年の国連人間環境会議で文化・自然保護の一体性の重要性が認識され、更に同年の第17回ユネスコ総会で世界遺産条約が採択されたわけである。

アブシンベル大神殿の北東約100mの位置には、ラムセス2世が第1王妃であったネフェルタリのために作った神殿。
ネフェルタリはエジプト3大美女の1人とされている。

残りの2人のうち1人は、ミタンニ王国から紀元前14世紀第18王朝のアメンホテプ4世に嫁いだとされるネフェルティティである。
アメンホテプ4世は唯一神アテン信仰を進めたアマルナ改革だけでなく、ツタンカーメン王の父として知られる。
ネフェルティティの美しい胸像がベルリンの世界遺産ムゼウム・スインゼル(博物館の島)にあり、それが見たくてかつてベルリンにまで行った。

もう1人は最も知られた古代エジプト人であろうクレオパトラである。
正確にはクレオパトラ7世で、紀元前1世紀のプトレマイオス朝時代に弟プトレマイオス13世と共同統治していた。
ポンペイウスと組んで紀元前31年にギリシャ沖アクティウムでオクタヴィアヌスと戦ったが、敗戦して毒蛇で自殺したとされる。

アブシンベル小神殿の外壁には、両端のラムセス2世像に囲まれた4体のネフェルタリ像が並んでいる。
こちらの小神殿も大神殿と同じく、200個以上のブロックに分割されてもともとあった場所から移設をされた。

小神殿と大神殿を同時に見渡すと、その規模の違いが際立つ。
しかし、そもそも当時のファラオが妃のために建てた建造物はほとんどないらしい。
両神殿とも少し遠めに見てもブロックにされた際の切断面をはっきりと見ることができる。

大神殿と同じく、奥には至聖所。
その手前には愛の女神であるハトホルを表した柱が立ち並んでいる。

アブシンベル神殿は長らく砂に埋もれていたが、スイス人の学者J.L.Burckhardtが1813年に砂の中から神殿上部を発見した。
なお、彼は前年にヨルダンのペトラ遺跡も発見している。

10時半頃にアブシンベルを出発し、アスワン方面へ戻った。

2. アスワン

アブシンベルを出発してから4時間後、14時半頃にアスワンに着こうとしていた。
本来は13時にはアスワンに戻ってきて、アブシンベルツアーと同じくベニス細川家ホテルで手配してもらっていたアスワンツアー(3,000円)に参加だったのだが、アスワン到着が遅れたためにどうなるのかさっぱり判らない。
アブシンベルツアーとアスワンツアーの催行会社も異なるため連絡なども伝わっていないだろうし、もう置いていかれたものだと思いバスの中でくつろいでいた。

アスワン駅に着く手前、突然現地人が乗り込んできて、言われるがままに一緒にバスを降りた。
バスを降りたのは良いが、いつの間にか男は消えている。
慌てて荷物のチャックなどを確認したが、特に盗られているものはなかった。

そうしていると代わりに新しい男がやってきて、これがツアー車だと言って車に乗せられた。
自分以外誰も乗っておらず、出発もしないまま10分ほど経過したころ、運転手から車の外に出るよう言われて降りると今度はまた違う男が立っている。

忙しくあちこちと電話連絡を取り合っているその男と一緒に待っているとまた新しい車が来て、それに乗せられた。
既に現地人ガイドにインド人家族とコロンビア人家族が10人弱乗っており、アスワンツアーが開始となった。

一連の流れで、エジプトにおける観光手配連携の素晴らしさを感じる。
自身のツアー集合が予定時間より遅れようが、そしてそれが異なる会社間のツアーであろうが、非常にスムーズに接続がなされた。
エジプトは支払いで色々と困る国ではあるが、この連携の良さには感服した。

ツアーの車はアスワン・ハイ・ダムの堤防を走った後、フィラエ神殿までの船が出ている船着場に到着。
貴重品が入っていないリュックはドライバーに一声かけ、敢えて車に置くことにした。

入場料EGP140(約870円)を支払って中に入ると、たくさんの船と土産屋。
船頭からも土産屋からも、客引きが全くないのは良かった。
既に15時を過ぎており、日も少し傾きつつある。

船代EGP10(約60円)を支払うと、10分ほどでフィラエ神殿などがあるアギルキア島に到着した。

アギルキア島で船を降りて数分歩くとフィラエ神殿群が見えてくる。

もともとフィラエ神殿群は別の島にあったのだが、アブシンベル神殿と同様にアスワン・ハイ・ダム建設に伴って沈むはずだった。
そのため、もとあったフィラエ島から現在のアギルキア島に移設がされた。
そういった経緯があるため、現在のアギルキア島はフィラエ島とも呼ばれている。

神殿の外壁は紀元前4世紀頃、第30王朝の時代に作られた。

エジプトは、アケメネス朝ペルシャの支配下に入って間もない紀元前332年にアレクサンダー大王の支配下に入っている。
その死後に成立したプトレマイオス朝エジプトは、アレクサンダー大王の流れを汲むギリシア風の列柱をフィラエ島中央に残した。

奥のイシス神殿もプトレマイオス朝時代の紀元前3世紀に建造が開始されたもので、クレオパトラの父であるプトレマイオス12世が外敵と戦う様子のレリーフなどが刻まれている。
イシス神は冥界神オシリスの妻で、フィラエ島でホルス神を産んだ。

プトレマイオス12世の遺言により、その死後はクレオパトラ(クレオパトラ7世)と弟プトレマイオス13世の共同統治がされる。
ローマのアントニウスと共にオクタヴィアヌスに立ち向かったクレオパトラは敗北し、長い古代エジプトの歴史は幕を下ろすことになった。

アギルキア島の東に残る、五賢帝時代のローマ皇帝トラヤヌスのキオスク。
天井がないのは崩落ではなく、もともとの設計による。

なお、トラヤヌス帝の後を継いだハドリアヌス帝は、イシス神殿にアーチ門を増築している。

これらの神殿は、『Nubian Monuments from Abu Simbel to Philae(ヌビアの遺跡群:アブシンベルからフィラエまで)』として世界遺産登録されている。
エジプト新王国時代からプトレマイオス朝時代までの長きにわたる歴史を現す建造物郡は、登録基準(ⅰ)人類の傑作、登録基準(ⅲ)文化的伝統・文明の証拠、登録基準(ⅵ)歴史上重要な出来事や思想等に関連するもの、の登録基準を満たしている。

夕方17時までフィラエ島を見学し、帰りの船着場に着くと夕日がナイル川に沈もうとしていた。
朝4時前からのツアーに始まり、夕日が沈むまで1日を有効に使い切ることができ、とても良かった。

フィラエ島からツアー車に戻って荷物を確認すると、案の定、自分のリュックは中を漁られていた。
リュック紐先端の止め具を止める前に、左右の紐それぞれを毎回ねじって入れているので、一旦誰かが開けるとねじり方を再現しない限り自分で異常に気がつくことができる。
そこまでしなくとも、今回はリュックの中の物の位置があまりに無茶苦茶だったので簡単に気がつく状態だった。

我々がフィラエ島に行っている間にツアー車に待機していたドライバーであろうことは容易に想像できる。
漁られることは想定内で、パスポートなどの貴重品類は身につけていたので実被害は皆無だが、車に戻った我々をフレンドリーに迎えるドライバーが白々しくて面白かった。

船乗り場を出発し、車でアスワン駅に戻った。
車を降りる際、ドライバーに敢えてごく小額のEGP1(約6円)のチップを渡しながら荷物がおかしいというようなそぶりをすると、ばつが悪そうな顔をしていた。
敢えて明確な指摘はしないが、こちらは気がついているという意思表示くらいはしておく。

アスワン駅では18時発のルクソール行に乗った。
今日回った遺跡でもそうだったが、列車内でも日本人を数人見かけた。
さすがメジャーなエジプトだけあって日本人観光客が多い。

アスワンを出て3時間後、21時にルクソール駅に到着した。

ルクソール駅に着くと、なぜか頼んでもいない送迎がついており、ホームに来た係員に連れられてそのまま車に乗ってホテルまで送ってくれた。
もちろん費用はかからず、時間も節約できてラッキーだった。

ホテルでチェックインすると、Expediaで支払いが終わっているはずの宿泊料がホテル側では確認ができないとのことで、支払うように要求された。
事情を説明するもレセプションは『支払いが確認できない』の一点張りで、どうにもならない。

2日前から始まった旅行開始以来、まともに寝られたのは昨晩の2時間のみで非常に疲れていた。
そのため、言われた通り払ってしまう方が楽だと考えてUSD21(約2,310円)を払って部屋に行った。
レセプションが悪意をもって2重請求をしているようには見えず、翌朝にもう一度話をしたら判ってもらえるのではないかという目算があったためでもある。
そのため領収書をもらい、領収書には応対してくれたレセプション係員の自署をしてもらっておいた。

チェックインで少し揉めたもののまだ22時で、やっと十分な睡眠が取れることに安堵して眠ることができた。

 

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エジプト旅行記 (3) アブシンベルとアスワン観光(2018年12月)” に対して1件のコメントがあります。

  1. 朽木鴻次郎 より:

    すごいですね!
    実に壮大です。クエートに行き着くのが楽しみです!
    サウジクエート国境ちょい南がアラビア石油の基地があった「カフジ」という街です。観光じゃサウジには入れないのでしょうね。

    1. だいすけ より:

      エジプトは世界遺産発祥の地と言えますし、歴史的にも興味があるので少し長くなりました。
      反面、クウェートは観光目的だと一生行かないので、敢えてエジプト〜クウェート〜レバノンと遠回りをして乗継時間を中途半端にとって行きました。

      カフジは存じ上げませんが、クウェートとサウジアラビアの国境なら危険ではなさそうですね。
      サウジアラビア皇太子が観光ビザの発行に積極的だったのですが、例のトルコ大使館事件でどうなるか。

      ちなみに、今はアルジェリアにいます。
      こちらも本当に素晴らしいです。

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