エジプト旅行記 (4) ルクソール西岸:王家の谷とハトシェプスト女王葬祭殿観光(2018年12月)

2018年末から2019年始にかけてエジプト~クウェート~レバノン~キプロスを周遊しました。
カイロとその近郊のピラミッド、アスワンとアブシンベルを経て今回のエジプトの最終目的地であるルクソールに来ました。
今回はルクソール西岸観光です。

【目次】
1. 王家の谷
2. ハトシェプスト女王葬祭殿とメムノンの巨像

1.王家の谷とハトシェプスト女王葬祭殿

2018年最終日となる12月31日(月)、朝5時に起きてシャワーを浴びたり荷物をまとめるなどチェックアウトの準備をした。
教のルクソールツアーもカイロの日本人宿であるベニス細川屋でお願いしており、ルクソールの東岸と西岸の観光で7,000円。

ピックアップは朝9時過ぎなので本来は5時に起きる必要はない。
しかし、日本より西側のエリアでは、現地時間を日本時間換算で考えると早寝早起きが方が良いので可能な範囲でそうしている。

9時にチェックアウトを済ませると、昨晩に宿泊代を2重徴収したことを謝罪され、返金を受けることができた。
昨晩の雰囲気から悪意がないことは判っていたが、まさか返ってくるとは思っていなかったため、臨時収入のようで嬉しい。

チェックアウト後にツアーの迎えが来たので乗車した。
既に日本人ばかり4人が乗っており、国内旅行のような雰囲気。
まずはルクソール西岸エリアの観光で、王家の谷に向かった。

10時過ぎに到着し、入場料EGP200(1,240円)を支払って中に入る。
中では更にトラムに乗る必要があり、料金は往復でEGP6(約40円)。
利用せずに歩くこともできるが基本的には乗るものなので、入場料に含めるべきだと思う。

王家の谷は、第18王朝のトトメス1世により紀元前16世紀後半に造営が始まったとされる。
各墓には番号が振られており、発見順に『KV+番号』という様式になっている。
モーツァルト楽曲のケッヘル番号のよう。

王家の谷の入口ではガイドに促されるままにカメラを預けてしまった。
これは大きな失敗で、墓の中はおろか外も写真が撮影できない状態で、時間に厳しいガイドに促されるままに紀元前12世紀第20王朝のラムセス6世の墓を見学。
今回の短い時間の中で見学した王家の谷の墓の中では最も装飾が素晴らしかっただけに、カメラがないことが非常に悔やまれた。

そのため、墓を出てガイドに写真を撮りたいと強く主張するも、聞き入れられない。
他のツアー参加日本人も加わってしつこく催促した結果、ガイドが入口に戻ってカメラチケットEGP300(約1,860円)を買ってきてくれることになった。

15分ほど待っているとガイドが戻ってきたので、王家の谷の入口でカメラも取り戻し、やっと撮影できる状態になった。
反省事項として、最初にガイドからカメラを谷の入口で預けるように言われた際に違和感を感じながらも預けてしまったことが良くなかったと思う。
預ける前にガイドに対して『写真を撮りたいのだが、撮るための方策はないのか?』と聞くべきだった。

今回は遅ればせながらカメラが戻ってきたわけだが、代償としてはラムセス6世の美しい墓内部を撮ることができず。
王家の谷のチケットでは別途料金が発生しない3つの墓に入れるのだが、1つの墓には1回しか入ることができないため、ラムセス6世墓への再入場はできなかった。
墓の入口で多少お金を払えば行けなくもない気はしたが、ガイドが時間にうるさいという点で無理だった。

ラムセス6世の墓の隣はラムセス2世のものだが、閉じており見学はできなかった。
紀元前13世紀に活躍した第19王朝の王だが、ラムセス3世以降のファラオとは血縁がないとされる。

続いて、メルヘンプタハの墓に入った。
メルヘンプタハはラムセス2世の子で、ラムセス2世亡き後に王の座を次いだ。
ファラオであった時期は紀元前13世紀末の約10年間と短かったものの、その治世には父ラムセス2世がヒッタイトと結んだカデシュの条約に沿って海の民を撃退してもいる。

モーセがエジプトの圧政に苦しむヘブライ人を率いてエジプトから逃避した出エジプトは、ラムセス2世もしくはメルヘンプタハの時代とされているようだが、確定的な証拠はなく今も議論の対象らしい。

質素な墓を柵外から見学していると、墓守からUSD20(約2,200円)で柵の内部に入れてやると持ちかけられた。
興味はあるもののUSD20はあまりに高いのと、吹っかけられているのが理解できたので渋るふりをした。

すると提示額がUSD18(約1,840円)に変わり、それも渋っているとUSD15(約1,650円)になりといった具合で、思いのほか刻みが小さい。
面倒なのでEGP40(約250円)という相手の提示より思い切り低い価格を言うと、さすがにそれは即答で断られた。
何度か価格のやり取りを続け、結果的にはEGP100(約620円)で落ち着いた。

価格が妥結するとすぐに、墓守は木製の柵を上げて内部に入るように促してきた。
柵外からは他に大勢の見学者がその様子を見ているわけだが、墓守はそんなことは一切気にしない。

墓の内部に入ったわけだが、見て特に面白いものではなかった。
一緒について来た墓守に解説を求めても『見て写真を撮ったら急いで出ろ』と急かすだけ。
判ってはいたことだが案の定、中で2枚写真を撮ったら『さっき妥結したEGP100(約620円)は写真1枚分だ』と言い出したので、『1枚目は練習』と自分でも訳の解らない返答をすると何故か納得してくれた。

3番目に入ったのはラムセス9世の墓。
ラムセス9世の治世は第20王朝の紀元前12世紀後半のうちの約四半世紀に及ぶ。
その時点で、今日最初に入ったラムセス6世の墓は盗掘に遭っていたというから興味深い。

ラムセス9世の玄室の天井は女神ヌトの装飾画で覆われている。
天空神ヌトは横たわる夫の大地神ゲブの上をドーム状に覆い、手と足だけがゲブに触れている。
朝になるとヌトは太陽を生み、太陽は太陽神ラーとともに太陽の船で天空を旅し、夜には再びヌトの体の中に帰っていくと考えられていた。

ツタンカーメンなどの墓も入りたかったのだが、ツアー的な時間が決まってしまっていたために無理だった。
再訪時にとっておく。

2. ハトシェプスト女王葬祭殿とメムノンの巨像

王家の谷を出て、土産物屋経由で12時半にハトシェプスト女王葬祭殿に着いた。

直線距離は短いものの、山を大きく迂回する必要があるために少し時間がかかる。
ハトシェプスト女王相殺殿の入場料はFGP100(約620円)だが、入口を過ぎるとEGP2(約10円)のトラムに乗る必要があり、こちらは別料金。

ハトシェプスト女王葬祭殿は、1997年のルクソール事件の舞台でもある。
政府転覆のために観光収入を絶とうとしたテロ組織によって葬祭殿の観光客が襲われ、60名以上が犠牲となった。
犠牲者には日本人10名も含まれていたため、当時は大きく報道された。

ハトシェプストは、紀元前16世紀末もしくは紀元前15世紀初頭にエジプトを治めた第18王朝3代王トトメス2世の妃だった。
夫のトトメス2世が死亡すると、トトメス2世とイシスの子トトメス3世が即位したが、トトメス3世が幼少であるため政治的後見をするとの口実で自らもファラオとなった。
そのため、第18王朝のファラオは4代がトトメス3世、そのうちの一部の時期を共同統治したハトシェプストが5代と扱われる。

ハトシェプストはその在位中、主に外交によってエジプトを発展させた。
葬祭殿の入口にはPuntとの交易によってもたらされた樹木が植えられていた跡が残っている。
Puntは現在のスーダン辺りにあった国とされ、エジプトから金属製品を得る代わりに乳香などを輸出していたとされる。

Puntと聞くと、水素原子モデルにおける線スペクトルのプント系列を連想する。
主量子数5の軌道へ、より高エネルギーの軌道から遷移する際に放出されるエネルギーのスペクトルがプント系列だが、そちらのプントの綴りはPfund。
これを書くまで綴りは知らなかった。

葬祭殿のテラスには冥界神オシリスの格好をしたハトシェプスト像が並ぶ。
ハトシェプストは過去に例のなかった女性のファラオだが、他の男性ファラオのように公式の場ではあご髭をつけていたため、像もそれを反映している。

この像や葬祭殿のレリーフは、ハトシェプスト没後に破壊を受けた。
幼いことを理由にハトシェプストに政治的実権が移管されていたトトメス3世や、女性のファラオに対して反発があった者によるとされている。
但し、トトメス3世が実権をハトシェプストに握られたからといって憎んでいたわけではなく、仮に葬祭殿を損壊させていたしたとしても他の政治的理由によるものと推測されているらしい。

なお、紀元前15世紀前半にハトシェプストの後見時代を終えたトトメス3世は、ハトシェプストとは異なり対外遠征を積極的に進めてアッシリアやヒッタイト、ミタンニと戦いながらエジプトの版図を史上最大となるユーフラテス川流域にまで広めた。
そのため『エジプトのナポレオン』とも呼ばれるが、ナポレオンの方が3000年以上も後の人物ということを考えると若干の違和感を感じる。

ハトシェプスト女王葬祭殿の見学を終え、次にメムノンの巨像に向かった。

メムノンの巨像は、第18王朝時代の紀元前14世紀前半にファラオであったアメンホテプ3世の像。
アメンホテプ3世の治世は、エジプトの領土が最大となったトトメス3世の時代から約1世紀が経過しているが、いまだその強勢は保っている状況であった。

エジプトの建造物にも関わらずメムノンの巨像とは、ギリシャ神話におけるトロイア戦争の英雄メムノンの名前がついていることに違和感を感じるかもしれない。
アクティウムの海戦でクレオパトラ7世とアントニウスを破ったアウグストゥスが初代ローマ皇帝として即位した紀元前27年、ルクソールで大きな地震が発生し、当時の巨像にひびが入ってしまった。
そのひびが寒暖差が大きい明け方に出す音が、英雄アキレウスに討たれた息子メムノンを悼む母エオスの泣き声と重なり、アメンホテプ3世の像はローマ時代にメムノンの巨像と呼ばれるに至ったそうだ。

なお、メムノンの母エオスはギリシャ神話では曙の女神である。
ギリシャ神話を積極的に取り入れたローマ神話ではアウロラと呼ばれ、自然現象オーロラの語源となっている。
また、エオスがメムノンを想って流す涙が朝露になるとされる。

本来は像だけではなくアメンホテプ3世の葬祭殿もあったのだが、紀元前13世紀末の第19王朝期に父ラムセス2世を継いでファラオとなったメルヘンプタハらによって石材が持ち出された。
そのため、現在は入口に残っていた像だけが残っている。

メムノンの巨像の観光を終えると、ガイドから我々ツアー参加者に昼食有無の意向が聞かれ、流れで昼食に行くことになった。
個人的には観光の時間がより取れた方が良いのだが、集団行動なのでおとなしく日本人5人で昼食を取った。

 

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