アルジェリア旅行記 (4) アルジェとカスバ(2019年2月)

2019年2月のアルジェリア観光です。
現地滞在3日という短い旅程でムザブの谷とティパサを見て回り、更にカスバを含むアルジェ市内の観光をしました。

【目次】
1. ティパサからアルジェへ帰還
2. アルジェのカスバ
3. アルジェ市内

1. ティパサからアルジェへ帰還

1. ティパサからアルジェへ帰還

2月10日(日)、ティパサの観光を終えてガイド、ドライバーと共にアルジェ市内に戻ってきた。
16時半過ぎにノートルダム・ダフリク聖堂に到着。

1870年台に完成し、『アフリカの聖母』と呼ばれるビザンティン様式の聖堂。
フランスのリヨンから来た2人の修道女が、同行していた司教パヴィに懇願したことで建設された。

聖堂は高台に立っており、アルジェ市内と海を見渡すことができる。
遠くには建設中の高さ300mのミナレットが見え、完成はわずか3ヵ月後の2019年5月だという。
高さ世界一になるミナレットの頂上からは地中海対岸のフランスも見えるらしい。

本当に高さ300m程度の塔で、フランスが見えるのだろうか。
こういう話をされると、定量的に検証したくなる。

アルジェから南フランスの最も近い領域で、およそ800kmほど離れているようだ。
そのため、アルジェ・地球の中心・フランス南部を結ぶ弧がなす角θは、地球の子午線の長さを40000kmとするとθ=π/25(=2π×800/40000)となる。

ミナレットの高さをh、地球の半径をRとすると、アルジェのミナレット頂上から南フランスが見えるための必要条件は『(R+h)cosθ≧R』である。
ここで、R=6400km、h=0.3km、cosθ=cos(π/25)=0.992であることを考える。
すると、明らかに南フランスが見えるという条件は満たさない。

あくまで地球が真円であるとしたごく単純なモデルであるため正確性には欠けるが、ともかくフランスが見えるという話は夢があって良いと思う。

パヴィの遺体は現在も地下に埋葬されている。
内部のマリア像は、マルセイユのノートルダム・ド・ラ・ガルド聖堂のマリア像と対面になるように置かれているらしい。
19世紀前半から20世紀中ごろまで、アルジェリアがフランスを宗主国としていたことを思い起こさせる。

その後は再び車に乗ってホテルまで向かい、チェックインをした。
チェックイン後は夕暮れのアルジェを街歩き。

中央郵便局はアルジェを代表する建物で、20世紀初頭のフランス統治時代に建てられた。

夕暮れになっても治安の不安は全く感じず、夜も同様に人通りが多かった。
港湾都市であるアルジェにからフランス南部のマルセイユまではフェリーで約23時間ほど。

ガイドと歩きながら、アルジェリアに関していくつかの話を聞いた。
人口は約4,200万人のうち3割がベルベル人で最多民族であること、人口のうちの約500万人はフランスとの二重国籍者であることなど。

また、西サハラの独立を認めるというアルジェリア政府のスタンスがモロッコ政府のスタンスとは異なるためにモロッコとの陸路の国境は封鎖されている。
但し、両国の政府間対立はありながらも民間での関係は良好らしい。

アフリカ大陸で最大の面積を誇るモアルジェリアは、モロッコ以外にも西サハラ、モーリタニア、マリ、ニジェール、リビア、チュニジアと国境を接している。
周辺国の治安が良くないこともあり、国境が開通しているのはチュニジアのみとなっている。

散歩と共に外で食事も済ませ、ホテルに帰って就寝した。

2. アルジェのカスバ

翌日2月11日(月)、9時にホテルに迎えに来たガイドと合流し、歩いて海岸沿いに向かう。
平日の朝であるために車通行も多く、ガイドがたまたま親戚に出会って話し込んでいた。

海沿いからタクシーを捕まえ、ガイドと共にカスバへと移動した。
車内には先客もおり、タクシードライバーや自分のガイドと談笑していたが、内容はフランス語でほぼ解らなかった。

ところどころ、ジャパンやテクノロジーといったような単語が聞こえていたので、タクシーを降りてからガイドに会話の内容を聞いてみた。
タクシー運転手が『日本は高い技術を持っているが、その技術が人と人の距離を広げてしまった。タクシー内で知らない人同士で会話などしないだろう。』という話をしていたらしい。
確かにそうかもしれない。

カスバの端には、カスバが発展を遂げた時代の統治者であるハイレッディンの像が立つ。
ハイレッディンは16世紀前半に地中海で活躍した海賊で、赤ひげの通称が知られている。
勢力の拡大と共にチュニジアのハフス朝に仕えたが1529年にスペインからアルジェを奪還し、その後にオスマン帝国スレイマン1世に献上したことでアルジェの支配者として認められた。

1529年は、スレイマン1世が第1次ウィーン包囲を行った年でもある。

ハイレッディン像のすぐ脇には刑務所が建つ。

現在も現役の刑務所として使われているが、特にフランス統治時代にはギロチンによる死刑が執行された。
犠牲者69人の名前が外壁にも刻まれており、1990年代までは付近の著しく治安が悪く、昼でも全く出歩けないほどだったのだそうだ。

スペイン人作家でドン・キホーテの作者であるセルバンテスは16世紀後半に海賊に捉えられ、身代金目的でアルジェに数年収容されていた。
何度も脱獄を試みたが、全て失敗に終わったという。

ムザブの谷のクサールと同様、カスバ内には全く車が入る余地は無いためロバが主要な動力として使われ、資材の運搬だけでなくゴミの収集にも借り出されている。
ムザブの谷と異なり、写真撮影での制約は特に無いようだ。

アルジェリアでは住宅の供給が不足しているということをガイドが言っていた。
そのため、政府はこの1年で100万戸を供給するという目標を立てているそうだ。
確かに、前日にアルジェからティパサに向かう途中で道路沿いに多くの建設中集合住宅を見た。

ある種の住宅ラッシュに沸くアルジェリアではあるが、カスバの住人は住み慣れた土地を離れようとはしないらしい。

カスバは16世紀のオスマントルコによる支配が始まった頃に起源を持つため、建造物は非常に古く崩落の危険性もある。
しかし、適宜の修復だけではなく増築までされるため、ますます崩落しやすくなるのだとか。

カスバ内にはいくつかモスクもある上、外敵の侵入を阻む迷路のような構成も慣れた住民にはむしろ便利でさえある。

続いて、カスバ内にあるムスタファ・パシャ宮殿へと向かった。

18世紀舞う、いまだオスマン帝国の下でアルジェを支配していたムスタファ・パシャの邸宅で、現在はその様子を残す博物館になっている。
アルジェリアがフランスに支配される30~40年ほど前のことだ。
一部はカリグラフィー博物館としても使用されていた。

そこから徒歩5分くらいでケチャワ・モスクに到着。

建造時期としてはムスタファ・パシャ邸の僅か数年後であるため、18世紀末に当たる。
元々はモスクとして建てられたものの、1830年のフランス支配体制ではカトリック教会に造り直された。

その後、1954年に始まったフランスとの戦争の末にアルジェリアが独立を勝ち取った1962年以降、再びモスクへと改修された。
まさに近代アルジェリアの歴史と共に歩んできたモスクと言える。

アルジェの残るこの急勾配の古い街並は『Kasbah of Algiers(アルジェのカスバ)』として世界遺産登録されている。
16世紀から17世紀にかけて北アフリカやアンダルシア、サハラ以南の建築や都市計画に影響を与えたとして登録基準(ⅱ)価値観の交流、地中海沿岸におけるイスラム文化の定住の顕著な例であるとして登録基準(ⅴ)伝統的集落や土地・海上利用または人類と環境の交流、の登録基準を満たしている。

3.アルジェ市内

ケチャワ・モスクの前には広場があり、つい先ほどまでいたカスバとは雰囲気が全く異なる。
地下鉄の駅もある近代的な街が広がる。
フランス支配の時代にカスバは大部分が取り壊されたため、数百年前の迷宮を近代的な建築物が取り囲むという現在の景観となったためだ。

地下鉄駅は新しく、広い上にきれいに保たれていた。
乗車賃はエリア毎に均一になっているようで、最安値はDZD50(約50円)。
飲食は厳しく禁止されており、数1,000DZDの罰金らしい。

地下鉄に一緒に乗りながら、ガイドが『風雲たけし城』を若い頃に観ていたという話をしてきた。
アジア域ではよくある話だが、まさかアルジェリアでも放送されていたとは恐るべし。
アルジェリアの旧宗主国がフランスということも関連するのだろう。

10分ほどの乗車で次の目的地である殉教者慰霊塔の最寄駅に着いた。
そこで昨日以来のドライバーと合流し、慰霊塔まで車で向かう。

慰霊塔は、アルジェリアがフランスとの戦争の末に1962年独立するまでの約9年間に亡くなった方に向けられたもので、独立20周年の1982年に完成した。
デザインは椰子の葉をイメージしている。

戦争ではアルジェリアの独立派が抑圧されたのはもちろんだが、アルジェリアを擁護したフランス人も容赦なく弾圧された。
実例として、2018年にはアルジェリア独立戦争のさなかに行方不明になったフランス人数学者モーリス・オーダンは、フランス軍による失踪・殺害だったとしてマクロン大統領が謝罪している。

慰霊塔から空港までは車で30分の距離だった。
15時20分発のドバイ行に乗るのだが、その4時間ほど前に着いてしまった。
かなり早い空港着ではあったが、チェックインは始まっていたので良かった。

無事に搭乗券を受け取れたので、余った現地通貨を両替するために両替所に向かうと、そもそもアルジェリア通貨を入手したときの両替領収書が必要だという。
これ自体はよくある話なので取っておいた領収書を出すと、EUR100相当以下の逆両替はできないという。

困って両替所周辺をうろうろしていると、闇両替屋がEUR100をDZD16,000で替えてやるという。
自分が欲しているのは逆であり、国外通貨を公定レートよりも高く買い取る闇両替は逆両替は対応していないのであしらうと、EUR100がDZD17,000になり、最終的には18,000にまでなった。

闇両替の相場を今更解ったところでどうしようもないので、逆両替は諦めて出国審査に向かった。
ところが、出国審査後のセキュリティチェックで現地通貨の国外持ち出しが禁じられているにもかかわらず所有が判明し、少し悶着した。
最終的には審査官1人あたりDZD1,000(約940円)の賄賂を支払って見逃してもらった。
制限エリアの免税店の商品が異様に少ないという点は気になったが、その他は特に面白いことは起きず。

アルジェを発ち、ドバイ経由で関西空港まで無事に帰り着いた。
アルジェリアで見たムザブの谷は特に素晴らしく、これまでの旅行先の中でも最も好きな部類に入る。
現地通貨からEURに再両替できなかったというのは、また来るべきという啓示なのかもしれない。

 

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