チリ旅行記 (5) オロンゴ遺跡とサンチアゴのケチャップ強盗(2017年8月)

2017年8月にペルー~エクアドル~チリのルートを回りました。
ペルーではマチュ・ピチュ、エクアドルではガラパゴス諸島、チリではイースター島がメインで、南米太平洋側の周遊です。

2日遅れて到着したイースターですが、イースター島発も2日遅らせて滞在は元の予定通り2泊3日にしました。
いよいよ島を発つ段に、またもやフライトトラブルが発生しました。

結果的に問題はなかったのですが、今度は着いた先のサンチアゴでは有名な『ケチャップ強盗』に遭遇します。

【目次】
1. オロンゴ遺跡とタハイ遺跡
2. 4度目のフライトトラブル
3. サンチアゴ観光とケチャップ強盗

1. オロンゴ遺跡とタハイ遺跡

翌日8月21日(月)、イースター島最終日。
朝からガイドと合流し、まずはラノ・カウ火山火口に向かった。

ラノ・カウ火山火口は直径1.5km強で、クレーターには湖ができている。
浮いている水草は、ペルーのチチカカ湖で有名なトトラの一種らしい。

続いて、オロンゴ鳥人遺跡に向かった。
ラノ・カウ火口からオロンゴ鳥人遺跡は車で数分の距離なので、両方を一時に回るのが定番コースとなっている模様。

17世紀まで作られたモアイは、その後の人口爆発と部族間闘争により19世紀前半には全てが倒され、次第に鳥人信仰へと移っていった。
各部族から選ばれた戦士は7月頃になるとイースター島の断崖を降りて沖の岩島まで約1.5kmを泳ぎ、そこでグンカンドリが卵を産むまで待ち、来た道をたどって卵を割らないように持ちかえるのだという。
見下ろすと島への距離は短いように思えるが、サメもいるらしく命がけだったようだ。

卵を最初に持ち帰った戦士の部族長は鳥人タンガタ・マヌとして崇められ、1年間最高権力者として君臨した。
食糧危機が続き、その配分のために新たな絶対的権力が必要だったと、ガイドに説明して頂いた。

イースター島側には、卵を取りに行く戦士が暮らした跡が修復されて残っている。
戦士たちはグンカンドリが沖の岩島に飛来してくるまでここで待ちながら暮らしていた。

オロンゴ鳥人遺跡の附属博物館では、鳥人儀式の様子が展示されている。
族長の知る農業に関する重要な知識と鳥人という超自然的な重み付けが合わさることでモアイに代わる新たな権威が生まれたのだというガイドの説明は非常に興味深かった。
信仰に対する投資とその収益のバランスが崩れ、信仰形態が変わった実例だと感じた。
このような儀式は、記録が残っている範囲で19世紀後半まで続けられていたようだ。

続いてアナ・カイ・タンガタに向かった。

アナ・カイ・タンガタは人食い洞窟と訳される。
物騒な名前ではあるが食人の証拠は発見されておらず、実際には鳥人儀式の勝者が祝宴を開いた場所らしい。

内部には鳥人儀式の様子を描いた壁画がある。
数年前までは洞窟内に入ることができたようだが、現在は岩の崩落が激しく危険であるため立入禁止になってしまった。

イースター島最後の観光はタハイ遺跡。
繁華街ハンガロアからでも歩いて行けるほど近い。

タハイ遺跡には3組のモアイが建てられている。
目が復元された唯一のモアイ像アフ・コ・テ・リクもここに存在する。
目は部族に霊力マナを送る源であるために部族間のモアイ倒し(フリ・モアイ)で破壊の対象となったが、1974年にアメリカ人考古学者ウィリアム・ムロイが修復した。
復元は世界遺産になる前の時代に行われたもので、必ずしも十分な検証がなされた上でのものではなかったらしい。

損傷の激しい5体のモアイであるアフ・バイウリと、1対だけで立つアフ・タハイも近い。
ハンガロアから歩いて来られる場所である上に西を背にしているため、夕日の時間には多くの観光客が撮影に来るらしい。
自分達は午後の便で帰らなければならないので撮影は無理だったが、知っていれば前日に来ていただろう。

イースター島は『Rapa Nui National Park(ラパ・ヌイ国立公園)』として世界遺産登録されている。
1000年にわたって他の文化圏から隔絶された地に開いた芸術的伝統であるとして登録基準(ⅰ)人類の傑作を、10~16世紀に作られたモアイが他に見れない景観を作っているとして登録基準(ⅲ)文化的伝統・文明の証拠を、島の文科と環境が溶け合った事例であるとして登録基準(ⅴ)伝統的集落や土地・海上利用または人類と環境の交流、の登録基準を満たしている。

2. 4度目のフライトトラブル

昼過ぎ、ガイドに空港に送って頂いた。
LATAM航空のチェックインをしようとすると、この旅4回目のフライトトラブルが露見した。

2日前にサンチアゴでイースター島行きキャンセル待ちで運よく座席を確保した際、復路は確保されていなかったため、乗る前に別のカウンターで復路のビジネスを予約してから来た。
しかも、イースター島に着いてから観光開始前すぐにLATAM航空のカウンターに向かって確かに復路予約が取れていることを確認した。
これら二重の対策を取ったものの、復路の便は取れていないという。

正確には、こちらに来た2日前の時点では予約がされていたものの、支払がされていないので自動キャンセルされたらしい。
こういったことを防ぐため、2日前にイースター島に来てすぐにカウンターに寄って予約を確認したのに、その時には支払を今すぐしないとキャンセルする旨は一言も説明がなかった。
そもそも支払いをすぐにするように要請もされなかった。

ともかく、予約や支払はここではできないので、街中のLATAM航空事務所へ行けという。
ガイドが、次のお客さん到着が迫っているにも関わらず、街中の事務所まで連れて来て下さった。
道すがらガイドが『そもそも2日前は事務所が午後休みだから支払自体できないんです』と仰る。
つまり、こちらに来た時点で復路のフライトは事実上無いままに来てしまったことになる。

車で空港から5分ほど、LATAM航空の事務所に着いた。
かなりの人数が並んでおり、ガイド曰く『普通に待っていたら2時間はかかる』とのことで、ガイドが奥の責任者に話を直接して下さった。
こういったトラブル発生の際にホットラインがあると本当にありがたいことが身に染みた。

結果、この事務所ではどうしようもないので空港に戻れという。
空港→市街の事務所→空港とたらい回しにあい、再び空港に。

これまでの事情を改めて説明し、ガイドの助けで最もキャリアの長いLATAM航空のクルーに直接相談した。
2日前のビジネス予約は復活できないので、もともと持っていたものの日程が変わって無効になってしまったエコノミーチケットを無理やり予約変更という形でキャンセル待ちをかけてくれた。
当然ただのキャンセル待ちなので、出発1時間前のチェックイン終了時間までは乗れるかわからないという。

出発1時間前の14時半頃まで、ガイドと雑談して過ごした。
1日1便かつ座席数も少ない便なので往復予約をしてくることが当たり前の環境下、復路のキャンセルが出るとは思えない。
最悪の場合に備えて、今晩泊まる宿の確保もした。

搭乗1時間前を切った頃、キャンセル待ち手続をしてくれたクルーがやってきて、チェックイン終了時刻を過ぎたノーショウに発生で座席が確保できたと2名分のチケットを持ってくてくれた。
ただでさえこれまでのフライトトラブルで予定が2日間遅れていたので、これ以上遅れずに済んだことに心底安心した。
社会人の旅行は日程との戦いであることが改めて身につまされた。

結果的には、仮予約していたビジネス復路USD645(約71,000円)を支払わずに、本来はできない元の復路エコノミーの日程変更扱いで済んだ。
2時間ほどキャセル待ちがうまくいくかどうか悶々としたが、結果的に追加費用無しでサンチアゴに買えることができて本当にラッキーだった。
かくして、夜22時くらいに無事にサンチアゴに到着。

サンチアゴ着後、空港のWiFiで旧市街地近郊に宿を取った。
何度も空港と市街を往復しているため空港と市街の移動にもすっかり慣れ、空港1階のタクシー乗場から市街に移動して宿に到着した。
チェックインしてから会社に電話し、予定よりも2日遅れているために出社も2日遅れることを伝えてから寝た。

3. サンチアゴ観光とケチャップ強盗

翌日8月22日(火)、この旅では南米最後の日となる。
朝起きてからチェックアウトをして街歩きに出た。
スペイン支配時代の16世紀に建設されたサンフランシスコ教会はサンチアゴ市内最古の建造物で、その長い歴史は同時に長い地震の歴史を耐え抜いたという証明でもある。

教会を出ると、突然背中に液体がかかった衝撃を感じた。
振り返ると、中年の女性が『バーニョ、バーニョ』と、鳥のフンを表す単語を大声で言いながらこちらを指して騒いでいた。
本当に鳥のフンかはさておき、慌てるとろくなことにならないのでまずは現状把握。

上着とリュックに大量についてしまったので、上着は脱いで捨て、リュックはティッシュで拭いた。
その間も、通行人がティッシュをくれたり騒いでいた女性が水を持ってくてくれたりしたが、笑顔で交わして荷物はかっちりガードしながら汚れを取った。

せっかくの好意を断って悪かったかなと思ったが、帰国後にイースター島に日本人ガイドに報告すると、間違いなく強盗・詐欺の類いだという。
よくあるケチャップ強盗の亜種のようなものか。

鳥のフンにしては色も量もおかしいと思って警戒していたが、やはりそうだったようだ。
状況を冷静に判断できなくなって慌て、隙を生ずることが最もよくない。

15分ほど歩いて着いたサンタ・ルシアの丘は、スペイン人征服者ペドロ・デ・バルディビアが原住民を抑え込むための砦を築いた高台。

ここは16世紀中頃にサンチアゴの街が建設されていく起点ともなり、街を抱くアンデス山脈がよく見渡せる。
サンチアゴはアンデス山脈の西側にあり、山脈はわずか数10km先の距離。

続いて向かった中央市場はおおまかに、魚介類など生鮮商品を売る店とレストランの2種類に大別される。
欧米系の顔立ちも多く見かけ、価格面から言ってもレストランの方は観光客がメインなのだろう。

あちこちで暖房が炊かれていたり、みな一様に長袖を着ているのを見て、こちらの8月は冬なのだと実感した。
サンチアゴは地中海性気候に当たり、冬の最低気温は5℃くらいと比較的温暖で、冬の方が夏よりも降水量が多いという特徴を持っている。

サンチアゴの最終スポットとして、アルマス広場に行った。
アルマス広場は、スペインが征服時に作った広場のうち筆頭のものに付けられる名前で、南アメリカの様々な都市に見られる。

アルマス広場の西に建つサンチアゴ大聖堂は、19世紀後半に建てられた5代目の建物。
オリジナルは征服者ペドロ・デ・バルディビアの時代、つまり16世紀中期に建てられたのだが、その後の地震で何度も倒壊と再建を繰り返した結果だという。

短い時間での駆足サンチアゴ観光を楽しんだあと、バスに乗って空港に向かった。
なお、バスはサンチアゴ市内を東西に走る大通りAv Libertador Bernardo O’Higgins(リベルタドール・ベルナルド・オー・ヒギンズ通り)で該当のバス停を探せば良い。

バス停は通りにたくさんあるが、空港行バスが全てに止まるわけではないので通行人や乗る前に運転手に聞く必要がある。
自身も同行者の会社後輩もスペイン語は全く話せないが、空港を意味するAeropuerto(アエロプエルト)だけ発せられれば十分に探すことはできた。
運賃は1人片道CLP1,700(約290円)。

午後にはイースター島のキャンセル待ちで何時間も過ごしたサンチアゴ空港へ戻って来られた。
予定よりも長くチリに6日間いてしまったが、続くトロントまでのフライトはエアカナダなので、もうトラブルは無いだろうし、仮にトラブルがあったとしても北米圏行きなのでなんとでもなるだろうという安心感がある。
果たして、問題なく搭乗できた。

翌日8月23日(水)の早朝5時過ぎにカナダのトロントに到着し、4時間ほど街中やトロントタワーを観光した。
4時間ほどの観光なのでトロントタワーに登って軽く散策するくらいしかできなかった。

日付変更線を越えて8月24日(木)に羽田を経由して伊丹到着。
12日間の予定が14日間に延びてしまい、ことごとく宿も当日キャンセルして取りなおしたり、飛行機もチケットを買いなおすなどして費用が多大にかかったが、良い思い出になった。

 

 

<関連記事>








コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 * が付いている欄は必須項目です

日本語が含まれない投稿は無視されますのでご注意ください。(スパム対策)