アルジェリア旅行記 (3) ティパサとマウレタニア王家の墓(2019年2月)
2019年2月のアルジェリア観光です。
到着翌日はムザブの谷とその周辺の観光でしたが、更に翌日は国内線でアルジェに戻りティパサの観光に向かいました。
【目次】
1. ガルダイヤからからティパサへ
2. ティパサ遺跡
3. マウレタニア王家の墓
1. ガルダイヤからティパサへ
アルジェリア3日目の2月10日(日)、時差ぼけのためか早朝というより深夜の2時半に起きてしまった。
再び寝ようとしばらく横になっていたがとうとう寝付けないまま明るくなり、朝食をとるなどして朝7時にドライバーと合流した。
ホテルから空港まで20分ほどで到着。
チェックインに向かおうとすると、その辺に立っていた空港係員から自分の苗字を大声で呼ばれた。
観光客があまりに少ないのと、一昨日夜に自分が到着した際に到着カードを書いていたために覚えられていたようだ。
ガルダイヤからアルジェまでのフライトは搭乗も到着も約30分ずつ遅れ、朝10時過ぎに着いた。
サハラ域から脱して、再び地中海沿岸へ帰還。
飛行機に乗っている時間は僅か1時間強なので遅れ時間は相対的に大きかったものの、出口で合流したガイドによると、むしろ遅れが少なくて良かったという雰囲気だった。
2週間前には機内でネズミが出たらしく、ケーブルがかじられて電気系統に異常がある可能性があるために欠航になったのだという。
そのまま車に案内され、自分とガイド、ドライバーの計3人でティパサに向かう。
昼の12時くらいにティパサに到着し、まずは昼食をとることにした。
ガルダイヤの一面砂漠の様子とは全く異なる、まるでイタリアの海岸沿いにでもいるような雰囲気に驚く。
観光客を寄せ付けないアルジェリアの一般イメージとはかなり違う。
ガイド、ドライバーと共にティパサ遺跡入口横のレストランに入って食事をした。
立地を考えると観光客向けの価格ではあったのだろうが、魚か肉のメインにスープ、それに飲み物をつけて3人でDZD3,000(約2,800円)。
ドライバーは、20年前まで毎年のように観光でタイに行っており、合計15回以上も行ったそうだ。
足元に猫が多く、魚の骨や皮を落とすと取り合いになる。
和む光景ではあるが、狂犬病には常に注意をしなくてはならないので噛まれたり引っかかれたりしないよう注意をした。
2. ティパサ遺跡
1時間ほど食事をしてから遺跡の入場ゲートを通った。
ティパサ遺跡はローマ時代の遺跡で、海沿いにやや細長く1kmくらいの範囲に広がる。
アルジェリアの小学校では社会科見学の行き先として非常に人気が高いそうで、実際に生徒の集団を数多く見た。
なお、彼らとすれ違うと必ず『ニイハオ!』と元気よく挨拶される。
アラビア語で『廃墟』を意味するティパサの遺跡は、敷地内にローマ時代の反映を忍ばせる建造物跡が多く残る。
もともとは紀元前6世紀にフェニキア人により建てられた都市だったが、紀元前1世紀ごろからローマの支配下に入った。
そのため、フェニキア時代の建造物ではなくローマ時代の建造物が主であり、入口すぐの位置には闘技場が広がる。
ローマにより建造された都市では、南北の大通りカルド(Cardo)と東西の大通りデクマヌス(decumanus)が見られる。
デクマヌスはラテン語で10を表すdecemを語源とする通り、ローマ軍が駐屯する際に第10団が置かれた場所である。
英語のDecemberも同様の由来であるが、現代の3月がローマ時代には年の始まりの月であったため、ローマの10番目の月が現代の12月だったことに起因する。
カルドとデクマヌスの交差点はティパサの遺跡においても明確に残っており、遺跡となった現代においても目印のようなものになっている。
遺跡内のあちこちの木には彫刻がされているが、これは現代の彫刻家が当局の許可を得てやっているものらしい。
交差点近くには公共広場であるフォーラムやユピテル・ユノー・ミネルヴァを祀った神殿跡なども残る。
カルドを北に進むと地中海が見えてくる。
大通りの両側には商店が並び、一段低い両脇は水はけ改善のためにあったのだそう。
向かって右側の奥には富豪の邸宅跡が残っているが、海商で栄えた故に海辺にあるのだろうか。
邸宅跡の床の一部にはモザイク画が残り往年の繁栄を偲ばせる。
破片が細かい上に屋外に晒されているので本来は保存状態は悪くなるのだろうが、年間を通じた寒暖差が比較的小さいことと降水量も少ないことから比較的状態は良い。
建築家のル・コルビュジエがムザブの谷からインスピレーションを得るためにしばしば訪れたように、作家のアルベール・カミュはティパサ遺跡をしばしば訪れたらしい。
遺跡の高台からは邸宅全景を見渡すことができ、海の美しさに目が奪われた。
海とローマ遺跡のコントラストは、チュニジアのアントニヌス浴場跡も想起させる。
地中海は頻度は少ないものの大きい地震を発生することもあるが、津波の被害は免れてきたということなのだろうか。
高台の聖堂跡は、ティパサ遺跡に残る幾つかの跡のうちの1つで、ティパサのキリスト教化の歴史を物語る。
ティパサは3世紀には司教座として機能し、北アフリカで最大規模のバシリカを持つ聖堂も建てられたという。
5世紀前半に北アフリカに勢力を広げたヴァンダルによって、5世紀末にはティパサにもアリウス派が広められた。
しかし、4世紀前半のニケーア公会議で異端とされた狭義であるため、住民達が減少するきっかけとなったらしい。
そのヴァンダルは、6世紀前半までアリウス主義を取り入れていた。
ローマの支配から5世紀以降のヴァンダル支配を経て、7世紀にウマイヤ朝のアラブ勢力が北アフリカ一帯へ勢力を伸ばす頃には、ティパサは放棄されていた。
その後は砂に埋もれて19世紀中ごろに発掘されるまで歴史の闇に埋もれていたため、邸宅や闘技場、劇場などが保存状態の良いままに残った。
なお、ティパサでは『2世紀まで公衆トイレが無料だったが3世紀にローマの施策変更により有料になった』とガイドが教えてくれた。
おそらく、ローマのコロッセオを建設したウェスパシアヌス帝が1世紀後半に有料トイレを設置し、反対する息子ティトスに『こうして稼いだ金は臭くない』と諭したエピソードを指しているのだろうが、時代が少し違う。
ここに限らずガイドの解説でしばしば見られる現象であり、聞くほうも気をつけないといけない。
3. マウレタニア王家の墓
ティパサ遺跡を2時間弱観光し、近郊のマウレタニア王家の墓に移動した。
14時半に到着した墓を間近に見ると、まるで小さいピラミッドのような形状。
現在はきちんと保護されているが、その前は敷地でサッカーの練習が頻繁に行われ、墓に向かってボールが蹴られていたのだそうだ。
また、日常的に行われているのか判らないが、訪れた際には墓の天井に一般人が登って写真を撮っていた。
ガイドによると当然ながら違法で、見つかれば罰金の対象らしい。
墓はティパサ遺跡からそう遠くはないものの高台にあるため、当時に石材を運んで建造するには大変に労力がかかったのではないかと思う。
近隣の中では最も高い位置であるため、360度全景が見下ろすかたちになる。
海辺のほうを向くと、遠くにティパサ遺跡も見ることができる。
この墓は、ベルベル人によるマウレタニア王国を紀元前1世紀中ごろに治めたユバ1世とその妻クレオパトラ・セレネのものだとされる。
墓には入口のような場所が4ヶ所あるものの、全てフェイクになっている。
扉上の彫刻をしてあるものの実際にはただの岩壁で、真の入口は地下にある。
ティパサに残るこれらの遺構は『Tipasa(ティパサの考古遺跡)』として世界遺産登録されている。
カルタゴやローマに関する卓越した痕跡であるとして登録基準(ⅲ)文化的伝統・文明の証拠、紀元前6世紀から6世紀にわたっての土着文化とカルタゴやローマによる植民地化の接点が見られるとして登録基準(ⅳ)人類史上代表的段階の建築・技術や景観、の登録基準を満たしている。
マウレタニア王家の墓を見終わり、近くのカフェでガイドとお茶をした。
DZD300(約280円)という観光地価格ではあるが、高台のテラスは風が吹き抜けて非常に気持ち良かった。
その後、約1時間半をかけてアルジェ市内まで戻った。
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