エジプト旅行記 (5) ルクソール東岸:ルクソール神殿とカルナック神殿観光(2018年12月)

2018年末から2019年始にかけてエジプト~クウェート~レバノン~キプロスを周遊しました。
ルクソールはナイル川を挟んで大きく西岸と東岸に分かれます。
前回は西岸の墓所遺跡を中心に回りましたが、今回はルクソール東岸の観光です。

【目次】
1. ルクソール神殿
2.
カルナック神殿
3. ルクソール博物館

1. ルクソール神殿

12月31日(月)午前のルクソール西岸観光を終えて、14時過ぎにナイル川の船乗場に着いた。

乗船賃はEGP5(約30円)で、西岸から東岸まで5分程度。
我々はガイド含めて6人という少人数だったが、船頭の商業効率都合などで船が一杯になるまで待機する必要はなく、すぐに出発できた。
ナイル川を船で渡るという経験は純粋に嬉しい。

ルクソール東岸に着き、すぐ脇のルクソール神殿へと歩く。
ルクソール神殿は、西岸にあるメムノンの巨像の建造者でもある第18王朝のアメンホテプ3世が、カルナック神殿の副神殿として紀元前14世紀前半に建造した。

入場料はEGP140(約870円)。
ルクソール神殿の入口には紀元前13世紀に第19王朝のラムセス2世が増築したオベリスクが立つ。
周辺にはラムセス2世の座像と立像もあり、入口を取り囲んでいた。

ギリシャ語で『串』を意味するオベリスクは、エジプトには7本しか残っていない。
うち4本がルクソールに存在しており、ルクソール神殿に1本とカルナック神殿に3本。
エジプトを象徴する碑であるため他国から狙われやすく、イタリアに残るオベリスクはエジプトよりも多い。

ルクソール神殿のオベリスクは本来は左右2本あったのだが、向かって右の1本はフランスに運ばれ、パリのコンコルド広場に立っている。
右のオベリスクは1830年代に当時オスマントルコの支配下にあったエジプトとフランスの間で譲渡が決定した。

エジプトからオベリスクを贈る見返りとして、フランスからは時計が贈られた。
カイロ郊外のムハンマド・アリ・モスクの時計台のものなのだが、写真で見る限りではオベリスクと釣り合いが取れるような物には思えなかった。

なお、オベリスクはフランスに贈られた右のものよりもルクソール神殿に現存する左のものの方が少し背が高い。
これは、カルナック神殿からルクソール神殿へと続く参道がルクソール神殿と直角になっておらず、参道を歩く参拝者から左右それぞれのオベリスクまでの異なる距離を視覚的に補正して同じ高さに見えるようにしたため。

ラムセス2世像に挟まれた入口から中に入ると、ラムセス2世の間が広がっている。
ラムセス2世によるルクソール神殿の増築はアメンホテプ3世による原型ができてから約半世紀後であるため、アメンホテプ3世時代の建造物群と、それらと直角に交わらない参道のひずみを吸収するためにラムセス2世が作った広場は平行四辺形型になった。

興味深いのは、小さいながらも壁面にメッカの方角を示すミフラブがあったことだ。
神殿がイスラム教徒によってモスクとして使われたことを如実に物語る。
7世紀中ごろ、エジプトは正統カリフ時代のウマイヤ朝の支配に入っている。

更に奥に進むとルクソール神殿を最初に建てたアメンホテプ3世時代の列柱廊に入る。
入口近くにはツタンカーメンとアンケセナーメンの夫婦像があり、像の裏側を見るとアンケセナーメンの手がツタンカーメンの肩にかかっているのが印象的だった。

列柱廊を過ぎてから振り返ると、その美しい全景を見ることができる。
ゆうに3000年を越えるほど昔のものなのだが、柱の上端が広がる開花式パピルスの様式がきちんとみてとれるなど修復状態が良い。
カルナック神殿のほうに観光客が集中するのか、ルクソール神殿はそれほど人が多くない点はじっくり見る上で良かった。

最深部の至聖所の手前の祠は、アメンホテプ3世が建てたもの。
2股に分かれた帽子をかぶる豊穣神ミンの姿をしたアメン・ラー神と、それにかしずくアメンホテプ3世の様子などが描かれている。

アメンホテプ3世の時代から1000年以上後、紀元前4世紀後半にこの地にやってきたアレキサンダー大王(アレクサンドロス3世)は、祠を増築した。
ところどころにアレキサンダー大王自身やその名を刻んだレリーフが見られる。

紀元前4世紀のアレキサンダー大王の侵攻以前、紀元前21世紀の中王国時代から紀元前4世紀の新王国時代終焉まで首都として栄えたテーベが、ここルクソールだった。
アレキサンダー大王の遠征で世界各地にアレクサンドリアが建設されたが、エジプトのアレクサンドリアはその名を関した最初の都市として知られる。

アレクサンドリアが大王の死後にプトレマイオス朝エジプトの首都となると、内陸部のテーベから地中海南岸のアレクサンドリアへとエジプトの中心地が移っていった。
テーベの衰退にはそうした内的要因もあるが、紀元前7世紀のアッシリア侵攻によるテーベの壊滅といった外的要因も忘れてはならない。

ルクソール神殿の入口に立つオベリスクの北側からは、参道が北のカルナック神殿まで続く。
2km以上も続く参道の両脇には多くのスフィンクスが配置され、通ることはできないものの様子は見ることができる。

古代のエジプトの暦ではナイル川の氾濫期を含む4ヶ月をアケトと呼び、アケトの間の一定期間にオペト祭を行った。
これは、カルナック神殿で祀られているテーベ守護神アメンとその妻ムト神がはなれであるルクソール神殿で過ごすことを祝う祭りである。
祭りの期間は彼らの息子であるコンス神の像も併せ、カルナック神殿から参道を通ってルクソール神殿に移された。

2. カルナック神殿

ルクソール神殿を1時間ほど観光し、16時前にカルナック神殿に到着した。
入場料はEGP150(約930円)。

カルナック神殿はアメン神とその妻ムト神、そして息子コンス神らを祀る古代エジプト最大規模の神殿で、紀元前20世紀頃から建設が始まったとされている。
その後歴代のファラオも増築を重ね、アレキサンダー大王のエジプト遠征とプトレマイオス朝成立の紀元前4世紀頃まで続いた。

入口の向かって右にはセティ2世のオベリスクが立っている。
セティ2世は紀元前12世紀初頭の第19王朝時代のファラオで、アブシンベル神殿などを建造したラムセス2世の2代あとに当たる。

中核をなすアメン大神殿は、それ以前にあった小規模な建築物が紀元前20世紀の中王国第12王朝以降に徐々に増築されていったもの。
特に、紀元前16世紀前半にヒクソスと戦い新王国第18王朝を創始したアフメス1世の息子アメンホテプ1世以降には大規模な増築が繰り返されることとなった。
それらの増築は、アメンホテプ4世によるテル・エル・アマルナへの遷都時期を除き、4世紀前半のローマ帝国コンスタンティヌスによるミラノ勅令期まで続いたとされる。

南にあるルクソール神殿と同様、オベリスクは世界の各地に搬出されている。
例えばトルコのイスタンブールにあるブルーモスク(スルタン・アフメト・モスク)の前に広がるヒッポドロームのものも、その中の1本。

ルクソール東岸のこれらの神殿遺跡は、西岸の王家の谷などと併せ『Ancient Thebes with its Necropolis(古代都市テーベと墓地遺跡)』として世界遺産登録されている。
紀元前21世紀頃の中王国時代から紀元前4世紀のプトレマイオス朝成立までのエジプトの歴史を都テーベとして残す建造物郡は、登録基準(ⅰ)人類の傑作、登録基準(ⅲ)文化的伝統・文明の証拠、登録基準(ⅵ)歴史上重要な出来事や思想等に関連するもの、の登録基準を満たしている。

3. ルクソール博物館

カルナック神殿のツアー後、車は参加の日本人客はそれぞれのホテルに順番で向かった。
自分は今日の深夜便でクウェートに行くため、それまでの時間を有効活用しようとルクソール博物館に行きたいと考えた。

ルクソール博物館の近くのホテルで降ろしてもらい、1時間ほどロビーの椅子で休んでからホテルを出ると、目の前はナイル川にはナイトクルーズを催行している船がいくつか浮かんでいる。
川のクルーズはすぐに飽きてしまうので、あまり自分には向いていない。

ナイル川西岸沿いにあるルクソール博物館にはすぐに着いた。
入場料はEGP140(約870円)。
博物館は小さい割に入場料はカルナック神殿やルクソール神殿と同等なので、単位面積当たりの費用は相対的に高いと言える。

紀元前27世紀~紀元前22世紀頃までの古王国時代にはエジプトの中心は下エジプトのメンフィスだったが以降はテーベ(現在のルクソール)に中心が移り、ルクソール博物館には特に紀元前16世紀以降の新王国時代のものが展示されている。

個人的に最も見たかったのは、ツタンカーメンの父でありアマルナ革命を行ったアメンホテプ4世の時代に作られたアテン神殿の壁画。
第18王朝期、紀元前14世紀中盤のファラオであるアメンホテプ4世は、それまでの信仰の中心だったアメン神の神官団の勢力と決別して唯一神アテンの信仰を宣言するとともに、テーベからテル・エル・アマルナに遷都を行った。

テル・エル・アマルナからは小アジアのヒッタイトやミタンニなどとの外交を示す記録も出土し、和平の神アテンの信仰に沿った穏健な外交がされていたようだが、その死後にツタンカーメンがあとを継ぐとアメン神官団の勢力が復活し、更に後のファラオによってアマルナは破壊を受けた。

博物館に奥に進むと、ラムセス2世のミイラが展示されている。
エジプト考古学博物館にあるものだと思っていたので、想定外で驚いた。

紀元前13世紀の第19王朝期に活躍したラムセス2世は、エジプト古代史で最も偉大なファラオの一人とされ、エジプト各地に様々な記念建造物を残した建築王だ。
紀元前14世紀にルクソール神殿を建設した第18王朝アメンホテプ3世も様々な建造物を残しているが、ラムセス2世はより多くのものを残した。

ラムセス2世のミイラがフランスで展示されることになった際、あまりに偉大なファラオであったためにエジプト政府はパスポートを発行し、職業欄にはファラオと記載された話がよく知られている。
実際にはフェイクニュースの類だったのだが、すぐにフェイクだと断定し切れないあたりがラムセス2世の歴史上の存在感を物語っている。

ルクソール博物館を出る頃には完全に周囲は暗くなっていた。
空港に向かうには早すぎたので、再び近くのホテルのロビーで居候。

2時間ほど居眠りをしてからタクシーを捕まえ、21時前にルクソール空港に到着した。

 

 

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