エジプト旅行記 (2) ダハシュールのピラミッドとメンフィス、エジプト考古学博物館(2018年12月)
2018年末から2019年始にかけてエジプト~クウェート~レバノン~キプロスを周遊しました。
カイロに早朝6時前に到着し、午前はギザの3大ピラミッドとサッカラのピラミッドを回りました。
今回は、午後に回った場所の記録です。
【目次】
1. ダハシュールのピラミッド
2. メンフィス博物館
3. エジプト考古学博物館
1. ダハシュールのピラミッド
12月29日(土)の昼前にサッカラを専用車で出発し、12時過ぎにダハシュールにある赤のピラミッドにやってきた。
ダハシュールエリアに入るためには入場料EGP60(約370円)が必要。
ドライバーは除き、現地で一緒になった日本人と一緒に2名で回っていたが、EGP60に対してEGP200札を渡すと、釣りが異常に少なくEGP50もなかった。
即座に抗弁するも、入場料2人分と駐車料金をまとめて清算したような趣旨のことを言われ、一旦釣りを財布にしまってしまった。
直後に同行の日本人にもチケット代が請求されたので、話が違うと改めて抗弁するも、『ちゃんと釣りは返したはず』と取り合ってもらえなかった。
数百円程度で揉み合うのは時間の無駄なのですぐに諦めたが、少し油断をするとこうなるので金銭授受の際は注意をしなくてはならない。
午前に訪問したサッカラでは。最初期のピラミッドである第3王朝2代のジェセル王時代の階段ピラミッドを見ることができた。
一方でここダハシュールでは、ピラミッドを階段状から今日の四角錐へと発展させたスネフェル王のピラミッドが存在する。
赤のピラミッドはその一例で、紀元前27世紀から紀元前26世紀にかけて5つのピラミッドを建造したスネフェル王の最後のピラミッドであり、外装が剥がれた現在の色からそう呼ばれている。
外の中腹部に空いた穴から内部に入ることもできるが、角度がついた背の低い穴の中を腰をかがめていく必要がある。
穴の入口で観光客としてきていたレバノン人が、進行方向と逆向きに頭を埋めて後ずさりしながら降りると楽ということを教えてくれ、実際に非常に楽だった。
続いて、赤のピラミッドの南にある屈折ピラミッドに向かった。
見える距離ではあるが、歩くと少し遠い。
屈折ピラミッドも、赤のピラミッドの前にスネフェル王により建てられた。
スネフェル王は第4王朝初代の王として知られ、クフ王の父親である。
つまり、第4王朝期のうちの紀元前27世紀から紀元前26世紀にかけての時期が巨大ピラミッド建造の最盛期ということになる。
屈折ピラミッドの特徴として、底部は角度が急ながらも途中から角度が浅くなっている点が挙げられる。
これは、当初は急勾配で建設を開始したもののピラミッドが耐えられず崩落を繰り返したため、途中から重量負担を減らすために勾配を減らしたことによる。
また、底部の石は水平ではなく地面に対して浅い角度をつけて打ち込まれるような様態で詰まれている。
急角度で積むためにはこのほうが都合が良いと考えられたようだが、結果的にはうまくいかずに角度の修正に行き着いたということになる。
屈折ピラミッドも中腹の入口から中に入れるはずだったのだが、閉まっていたので諦めた。
ここまででギザ~サッカラ~ダハシュールの一連のピラミッド観光を終え、次にメンフィス博物館に向かった。
2. メンフィス博物館
ダハシュールから車で北に20分ほどでメンフィス博物館に到着。
入場料としてEGP80(約500円)を支払って中に入る。
メンフィスは、紀元前3,100年頃に始まったとされるエジプト第1王朝の時代から紀元前16世紀の第17王朝の時期まで古代エジプトの首都であった。
遊牧民ヒクソスを駆逐したアフメス1世が第18王朝を創始すると、その出身地であるテーベ(現在のルクソール)に中心が移ったために衰退した。
メンフィス博物館の大部分の展示物は野外であり、碑文や胸像がメインとなる。
特に、大理石の一種であるアラバスタでできたスフィンクスは、大きさはギザのスフィンクスには到底及ばないものの、アラバスタ製としては現存する最大のものなのだそうだ。
メンフィス博物館で最大の見所はラムセス2世の巨像だろう。
像の足が前に出ていることは、生きていることを表すのだという。
ラムセス2世はエジプト中王国第19王朝が最盛期を迎えた頃の王で、その治世は紀元前13世紀に当たる。
紀元前13世紀前半には世界史上初めて鉄器を使用した国として知られるヒッタイトのムワタリ2世と戦い(カデシュの戦い)、やはり世界初と言われる和平を結んだ。
ヒッタイトの首都ハトゥッシャで出土した和平碑文はイスタンブール考古学博物館に所蔵されているが、世界最古の和平条約という価値の重さからニューヨークの国際連合本部にもレプリカが飾られている。
ラムセス2世はルクソールのカルナック神殿やルクソール神殿を建造しただけでなく、アブシンベルにあるアブシンベル神殿を建てたことでもよく知られている。
特に、1960年代のアスワン・ハイ・ダムの建設により水没の危機にあったアブシンベル神殿の救出は、世界遺産制度の誕生に関して直接の契機となっており、現代においてすら影響力を及ぼした偉大なファラオと言える。
ギザやサッカラ、ダハシュールなどに存在するピラミッド群およびメンフィス博物館は 『Memphis and its Necropolis – the Pyramid Fields from Giza to Dahshur(メンフィスのピラミッド地帯)』として世界遺産登録されている。
最も重要で他に類を見ない古代建造物であるとして登録基準(ⅰ)人類の傑作を、一連のピラミッドや考古遺跡が古代エジプト首都の組織を表す証拠であるして登録基準(ⅲ)文化的伝統・文明の証拠を、メンフィスがネクロポリスの神プタハへの信仰に関連した場所であるとして登録基準(ⅵ)歴史上重要な出来事や思想等に関連するもの、の登録基準を満たしている。
3. エジプト考古学博物館
一通りのピラミッド観光とメンフィス博物館の見学を終え、15時頃にカイロに戻ってきた。
本来は考古学博物館前で降ろしてもらおうと思ったが、同行の日本人の方は宿に戻ると言っていたので自分も気が変わり、ベニス細川家ホテルで降ろしてもらった。
ベニス細川家ホテルには、翌日のアブシンベル観光・アスワン観光・アスワンからルクソールまでの列車手配、翌々日のルクソール観光の手配をまとめて依頼している。
そのため、レセプションで改めて翌日意向の手配状況などを聞いてから、徒歩で考古学博物館に向かった。
カイロ市内ではあるが旧市街ではないため、街並みからカイロらしさを感じることはない。
宿から20分ほど歩いてエジプト考古学博物館に到着した。
お約束どおり、『もう閉まってるから今日は無理だ』というタクシー運転手が声をかけてくるので無視して進む。
入口でセキュリティチェックを受け、入場料EGP160(約990円)を支払った。
中で写真も撮りたいので撮影料EGP50(約310円)も併せて支払ったのだが、釣りがEGP90のところなぜかEGP30しか渡してもらえず、問い詰めてもチケットカウンターの係員は訳のわからないことを繰り返すばかり。
既に閉館1時間前の16時であることから、揉めても時間の無駄だと思って差額のEGP60(約370円)は潔く諦めた。
なお、背負っているリュックもクロークに預けなければならず、クロークの係員が『規定以上の大きさで困る』といった趣旨のことを言ってぐずぐずするのでEGP20(約120円)を渡して時短を図った。
中に入ると、閉館1時間前という時間のせいか思ったよりも混んでいなかった。
今回の旅行ではわずか1時間程度の見学で駆け足にはなるが、考古学博物館は2020年にはギザに移設される予定であるため、その時には再訪してゆっくり見るという2回計画にしている。
世界のいくつかの場所でミイラを見ることができるが、製造過程の緻密さから考えるとエジプトのものは別格だと思う。
炭酸ナトリウムや炭酸水素ナトリウムから成る鉱物ナトロンで時間をかけて脱水をしているため、肌が美しいという点から特にそう感じる。
ナトロンと言えば、死の湖とされるタンザニアのナトロン湖にも是非行ってみたい。
特別室にはツタンカーメンの黄金のマスクが展示されていた。
ツタンカーメンは紀元前14世紀に生きた新王国第18王朝の王で、宗教改革で知られるアメンホテプ4世を父とする。
元々は、アメンホテプ4世が進めていたアテン神信仰を受け、『アテン神の生きた似姿』を意味するトゥット・アンク・アテンを名乗っていた。
しかし父の死後、9歳で即位すると『アメン神の生きた似姿』を意味するトゥット・アンク・アメンを名乗り、従来のアメン神信仰へと舵を切った。
このトゥット・アンク・アメンを日本語風で言うとツタンカーメンになるわけだ。
なお、ツタンカーメンの妻も、この過程でアンケセパーテンからアンケセナーメンに改名している。
実は、ツタンカーメンの黄金マスクよりも2歳年上の妻アンケセナーメンがツタンカーメンの棺の上に置いたとされる矢車菊の花束の方が見たかった。
ツタンカーメンの死後、望まないかたちで後にファラオとなった老宰相アイの妻とならざるを得なかったアンケセナーメンの思いを感じられるのではないかと思ったのだが、時間がないこともあり、探しきることができなかった。
なお、アンケセナーメンはアイとの結婚を回避するためにヒッタイトに書簡を送り、呼応したヒッタイトは王子ザンナンザをエジプトに送り込もうとした。
ところが、ザンナンザとその一行は途中で何らかの理由で行方不明となり、エジプトに着くことはなかった。
アンケセナーメンとの結婚を成就させようとしたアイなどによる暗殺が唱えられているが、真相はよく判っていない。
アンケセナーメンの花束を探す途中、コプト教徒の棺が目に留まった。
1~2世紀頃の原始キリスト教の一派のものであり、非常に心が動いた。
ある歴史の本で『エジプト文明の根底には死が横たわっており、古代エジプトは高度な建築や芸術を発展させながらも行き着く先(利用の先)は死であった』という趣旨の記載をかつて読んだことがある。
その記述を覚えているくらい、自身の中にもそのような概念が弱いながらも出来ており、エジプト文明に必ずしも明るい印象を持っていなかった。
しかし、頭の部分に故人の顔が描かれたコプト教徒の棺を見て、たとえ利用の先が棺の装飾のような死の関連物であってもそれは無意味ということにはならないと強く思った。
棺に納められていたのは必ずしも非常に身分の高い人物ではないそうで、1世紀の時点でここまでの装飾を施すのは強い思い入れがないとできないだろうし、その思い入れが装飾によってよく表現されていると感じた。
カノプスは、遺体をミイラにする際に防腐処置をした臓器を保存した壷で、肺、胃、肝臓、腸の4種類ある。
4種は1組として使われ、デザインは天空の神ホルスの息子を象っている。
心臓は特に大切なものとされ、防腐処理をして包帯で巻いた後は体内に戻されたという。
一部の臓器は丁重に保存される一方、脳は鼻の穴から掻き出されて捨てられていたという点が興味深い。
ツタンカーメンの父で、アマルナ改革と呼ばれる宗教改革を行った新王国第18王朝アメンホテプ4世の像は非常に面長で、他の像とは明らかに様相が異なる。
アメンホテプ4世は、それまで信仰されていたアメン神の神官勢力と決別するために唯一神であるアテン神信仰へと改革を行い、首都をテーベ(現在のルクソール)からテル・エル・アマルナ(現在のアマルナ)へ移した歴史は学校で学ぶ。
その際に写実的なアマルナ美術が発達したという点も習うが、このアメンホテプ4世像にはアマルナ美術の特徴が表れているのだという。
詳細はわからないが、これを写実的と言うのだとすると違和感を感じる。
約1時間の考古学博物館を楽しみ、17時過ぎに建物を出た。
クロークで預けたリュックを受け取ろうとすると、また係員が『重くて大変だった』というようなことを言ってチップを取ろうとするので無視してリュックを受け取った。
預ける際にも必ずしも必要ではないチップをEGP20(約120円)渡しており、いちいち付き合っているともたない。
博物館の敷地の外でタクシーを捕まえ、カイロ旧市街のアズハルモスク経由で空港に向かうことにした。
17時半過ぎにアズハルモスクに着いたが、予想通り閉まっていた。
アズハルモスクは10世紀後半のファーティマ朝時代に建てらた。
至近距離からでもミナレットが高くそびえ、歴史の重さを感じさせる。
今回は時間がないのでこのまま空港に向かうが、カイロ旧市街には見どころが多いのでそれほど遠くないうちに必ず再訪したい。
カイロ旧市街は『Historic Cairo(カイロの歴史地区)』として世界遺産登録されている。
1000年以上の歴史を持つモスクが林立するカイロは、特に16世紀のマムルーク朝時代までの栄華を表し、登録基準(ⅰ)人類の傑作、登録基準(ⅴ)伝統的集落や土地・海上利用または人類と環境の交流、(ⅵ)歴史上重要な出来事や思想等に関連するもの、の登録基準を満たしている。
18時半にカイロ空港に到着し、バーガーキングで食事をした。
基本的に観光中は時間の節約のために食事はとらないようにしており、空港のような時間に比較的余裕がある時にのみ食べる。
予定通り22時過ぎのカイロ発便に乗って24時前にアスワン空港に到着した。
移動してホテルに着く頃には12月30日(日)へ日付が変わっていた。
ホテルの予約は、誤ってエジプト人用の料金USD31.02で予約をしてしまっていたようで、レセプションでチェックイン時に指摘されUSD45に修正された。
エジプトは著しい物価が安い割りに、ホテルの宿泊料金は国内外で底なでの差がないようだ。
機内泊後の初ベッド睡眠なので安堵していたのだが、他の宿泊客達がクリスマス騒ぎでうるさく、あまりきちんと眠ることができなかった。
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